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小倉城下町さんぽ 秋月街道⑫城野と北方の界

通称「城野街道」を進みます。
その先左に「国立小倉医療センター」。真向かいに「天疫(てんえき)神社」。病院と神社、病気平癒には最強の組み合わせですね。
境内にはクスノキや赤松等の大木があり、北九州市の保存樹に指定されています。
この辺りが、城野と北方の境でしょうか。
以前はここに一里塚があったということです。

北方は、古くは蒲生郷に属し、南北に分け、北県(きたあがた)・南県(みなみあがた)といったことによるそうです。

国立小倉医療センター
天疫神社
天疫神社鳥居
天疫神社境内
天疫神社拝殿
天疫神社御祭神由緒書
保存樹

 現在の「国立小倉医療センター」は、明治8年、歩兵第14連隊が創設され、旧小倉城内(三の丸)に営所病院として開設されました。

明治21年「小倉衛戍(えいじゅ)病院」に名称を変更、同32年4月に北方に移転しました。
森鷗外さんが陸軍第12師団軍医部長として小倉に赴任しましたが、たびたび指導、視察で来院したようです。
太平洋戦争中に陸軍病院となり、終戦後は国立小倉病院、そして平成16年に現在の国立病院機構小倉病院(病床数400床)に。

構内には、「衛戍病院」「陸軍病院」記念碑があり当時の歴史を物語っています。

小倉衛戍病院跡碑
小倉陸軍病院記念碑



城野・北方の発展は、明治29年ごろから北方に陸軍第12師団に属する各部隊の駐屯地建設が始まり、同30年7月に兵舎が完成、城内にいた新設の歩兵第47連隊がまず移転してきました。

今の国立小倉医療センターの周辺には瞬く間に町並みが形成され、客馬車や鉄道馬車まで走り出しました。
歩兵連隊を皮切りに明治30年9月、騎兵12連隊が移ってきました。その後続々と、野戦砲兵12連隊、工兵12大隊、輺重兵12大隊とやってきました。

軍隊が北方に来てから出来た現医療センター前の通りには、軍隊をお得意さんとする商店が第47連隊正門付近まで軒を並べていました。
旅館、雑貨屋、飲食店、陶器店などはいうにおよばず、軍装屋・馬糧屋・瓦屋・鍛冶屋・饅頭屋などは大半が軍隊のみに依存している店でした。
昭和40年代まで面影が残っていたそうです。

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