小倉城下町さんぽ 秋月街道㉘加用~高津尾
小倉南区・紫川の東谷川との合流を過ぎて東谷川に架かる橋が加用橋。
加用地区は江戸時代から住家は主に川東に建っていて、川西の大内田地区は水田地帯でしたが、明治25年に中谷高等小学校が開設されてから人家が集まり、大正時代には加用の中心は西に移ってしまったそうです。
明治の中頃からは登記所の出張所ができて三谷地区の人は不動産を移動するときには必ずここに来て手続きをしました。
宿場ではありませんでしたが、川のそばに料理屋風の店や休憩して一服する所もできにぎわいました。
当時は食料に関するもので自給自足できないのは塩、砂糖くらいで、加用に行けば酒・塩・農機具を売る店や駄菓子、雑貨を商う店、染め物屋もありました。
明治43年に長行などの各学校に高等科を併置するようになったので、中谷高等小は明治43年3月21日に閉校となります。
また、呼野にあった郵便局も明治25年4月に加用に移され「高津尾郵便局」と称していましたが、同28年7月に石原町に移ってしまいました。
加用から南へ歩きます。
慶応2年の小倉戦争では小倉の城下町を自焼し、香春に移った小倉藩軍は金辺峠に陣を置き企救平野各地で対峙しますが、長州軍は芸州・広島口、石州口浜田方面で戦勝した軍を10月1、2日には小倉方面に投入、4日に総攻撃をかけます。7日から始まった高津尾本陣の攻防は圧倒的な長州軍に小倉軍は次々陥落し、金辺峠まで撤退、敗色は決定的になりました。
「愁風小倉城」の歌詞がこの激戦を表しています。
〽③血潮にそまる 桜川 屍(かばね)をさらす 平尾台
企救の戦野の秋寒く 兵は傷つき 馬たおれ
雨蕭条(しょうじょう)の金辺峠
ああ恨みは長し 小倉城(続く)
(歌・村田英雄 作詞・原田茂安 作曲編曲・船村徹)
小倉軍の服装は8月に退去した時のままで、迫りくる寒さにも耐えかね、食料も不足し悲惨な状況でした。
小倉戦史では、この土地を次のように書き残しています。
「高津尾、丸山の地形は、東に白旗山ありて高くそびえ、西側に丸山を据え、その間わずか一町に足らざる山岳にして中間に渓流あり、岸高くして渡るに難く、流れに沿うて街道あれども断崖峨々として上るべからず。一夫夫れを守るときは、万夫を抗すべき天険の要地なり」。
その小倉軍の守備勢が置かれた東の丸山、西の丸山の間に加用公民館。その横に山川式部切腹石があります。戦国時代の香春城主原田氏の家臣、山川式部が、主君原田氏に代わりこの石に腰を掛けて切腹したと伝えられています。
秋月街道は加用公民館から約500メートル先九州自動車道をくぐる手前で国道322号線に吸収され、旧道が石原町、呼野へと続きます。
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