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鷗外さんの小倉日記㉙元と春

(九月)
九月一日。雨。夜牙婆至る。明旦二婢を伴ひ來らんと約す。小倉に来りてより、予に事ふるもの兵僕あり、馬丁田中寅吉あり、婢あり。而れども兵僕は夕に營舎に帰り、馬丁は厩に臥す。故に家裏に眠るものは予と婢とのみ。 前の婢の来り仕ふる初、 予宇佐美氏に請ひて、其婢をして共に眠らしめ、以て嫌疑を避く。既にして宇佐美氏の婢、我家の勞少く賚多きを羨み、 宇佐美氏を辞して、 井上中将の家に仕ふ。故に予の新婢を傭ふや、復た宇佐美氏に請ひて夜其婢を借ること能はず。 遂に二婢を畜へざる可からざるに至る。

9月に入りましたが、また雨。
「夜、牙婆来る」、キバのはえた婆さんとはまた、ずいぶん怖いばあさんがいたものですね。でも大丈夫、牙婆と書いて「すあい」と読みます。「すあい」とは、今はほとんど使われない言葉ですが、中世くらいからある、売買の仲介をする者のことです。元もとは訪問販売や店舗販売に従事する人全般を指しました。その商品のひとつに人間(妾や婢)も含まれたようです。日葡辞書にも「Suuai」と載っています。
その牙婆(すあい)、この場合口入屋(今なら人材あっせん業)の女の人がやってきて、あすの朝、お手伝いさん(当時は下女)を二人連れてきますので、と約束して帰った。
小倉に来て以来、自分に仕える(世話をする)ものは陸軍の当番兵、馬丁の田中寅吉、お手伝いさんがいる。しかし、当番兵は夕方には営舎つまり軍隊に帰るし、馬丁の田中も厩(うまや)で寝るので、家の中はお手伝いさんと自分の二人。以前のお手伝いさんが来た時は大家の宇佐美氏に頼んでそちらのお手伝いさんに来て、うちのお手伝いさんと同じ部屋で寝てもらい、独り者の自分にあらぬ嫌疑がかからないようにしていた。
しかし、宇佐美氏のお手伝いさんは我が家の仕事は少なく給金が多いのを知り、軍人の家に勤めると待遇が良いことと見て上司の第12師団の井上中将宅に勤めを変えることにした。
というわけで、今度新しいお手伝いさんを雇っても宇佐美氏にお手伝いさんを借りるわけにはいかないので、とうとう二人のお手伝いさんを雇わざるを得なくなったというわけです。

二日。雨。朝本堂恒二郎將に獨逸國に赴かんとす。 馬關に泊する間、特に來り別る。牙婆二婢を扯き来る。大婢を木村氏元となし、小婢を吉田氏春となす。彼は門司の産にして、京都郡の小學校にありて諸禮及裁縫を女生に授けたりき。祖父母ありて二親なく、をぢに後見せらる。をぢの己れのために婚を議するに及びて、出で、婢となる。 年二十。此は大分の産にして、亦雙親なく、紡績會社の工女たり。
その勞動の劇しきに堪へずして、逃れて婢となる。 年十四。 元は白く肥え、春は黒く痩せたり。是日金子又至る。その岩村透と舊あるを知る。

2日も雨。東大医学部の後輩、本堂恒次郎(日記では恒二郎)がドイツに留学する途中、下関に泊まっているので、訪ねてきた。
本堂恒次郎(1865~1915年)は盛岡出身。盛岡の医学校および外国語学校を経て、明治25年帝国大学医科大学を卒業。ついで陸軍軍医となり、日清戦争には野戦病院付、こののち日露戦争では衛生予備隊長。
内科学が専門で、44年東京第一衛戍病院長、大正元年陸軍軍医学校長を経て、2年陸軍軍医監となり、近衛師団軍医部長を兼ねることになる。
=出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)

安倍元首相の華麗なる系図

本堂の娘、本堂静子は政治家安倍寛と結婚、息子が元外相の安倍晋太郎です。2022年7月8日, 奈良県樫原市で凶弾に倒れた安倍晋三元首相の祖母にあたります。したがって本堂は安倍元首相の曽祖父というわけです。

安倍寛・静子夫妻

きのう約束した口入屋が二人のお手伝いさんを連れてきました。
年かさの方は木村元、若い方を吉田春という。
木村元は門司生まれ。京都郡の小学校で礼儀作法や裁縫を教えていました。祖父母はおりますが両親はすでになく、叔父の世話になっておりましたが、叔父が勝手に結婚をさせようとするので、それが嫌で家を出て女中奉公に出たということです。年は二十歳。
二十歳といえば今なら大学生か働き始めたばかり。当時はそんな若い女性を年かさというのだから驚くばかりです。
もう一人の春は14歳。大分生まれで彼女も両親はなく、紡績会社に勤めていましたが、労働の過酷さに堪えかねて逃げ、女中奉公をすることに。
どこの紡績会社かわかりませんが、女工哀史みたいなことが横行していたようですね。
元は色白でふくよか、春は色黒く痩身、対照的な二人です。
この日、金子牧師が再び来訪、鷗外さんの後任で東京美術学校で教えていた美術批評家の岩村透と旧知の間であることを知りました。

三日。日曜日なり。雨。森友道始て至る。午に近づきて出で、仲木少將を訪ふ。夫人二子と相見る。少將居る所の室に扁額あり。 北海畫く所の松嶋の圖なり。布局頗る人意の表に出づ。

3日日曜日。雨。
森友道が来た。
森友道は以前も訪ねてきたことがあります。金沢衛戍婦人慈善会での講話「衛生手引草」などの著書もあるので、軍医だと思われます。
昼が近づき家を出て第12旅団長仲木之植中将を訪ねた。その時夫人と二人の子供と会った。
仲木中将(1848年~1900年)は長門国阿武郡椿郷松下村(現:山口県)出身。幕末より馬関戦争、四境戦争に従軍し戊辰戦争に於いては仙台に出張した。
維新後、御親兵に入り明治7年11月陸軍少佐。
西南戦争では山田顕義の別働第2旅団に従い大隊を率いて各地を転戦するが水越の戦いで負傷し前線を退いた。
14年2月陸軍中佐に進み歩兵第8、歩兵第7、近衛歩兵第2、歩兵第4連隊長を歴任し22年4月陸軍大佐に昇進。
日清戦争後の29年3月陸軍少将に昇るとともに台湾守備混成第1旅団長に就任。
明治32年当時は陸軍歩兵第12旅団長。

仲木之植中将

仲木少将の部屋に、高島北海が描いた松島の扁額があった。
北海は萩出身、明倫館で学び工部省にはいり、フランス語を学ぶため兵庫県生野銀山に赴任、フランス人技師長などお雇い外国人にフランス語や地質学を学んだ。明治17年、政府の命により万国森林博覧会に参加するため渡英、翌年フランスのナンシー水利林業学校に3年間在学、専門の植物地誌学を学んだ。
(のちに上京して中央画壇で活動)

高島北海は1850(嘉永3)年、萩藩医の子として萩で生まれ、絵を独学で学びました。明治維新後、工部省に入り、兵庫県の生野鉱山に赴任すると、お雇い外国人からフランス語や地質学、植物学などを学び、日本初の地質図となった山口県の地質図を作ります。
その後、内務省や農商務省に移り、日本各地の地質や山林を調べました。

高島北海

やがてフランスのナンシー水利森林学校に留学し、植物学を学びます。そこで、後に美術運動「アールヌーヴォー」の担い手の一人となるエミール・ガレらナンシーの美術家たちと交流し、多くの日本画を制作しました。卒業したナンシーの学校には彼の写真と細密画、写生画が残っています。40代後半から公職を辞し画業に専念、50代で上京すると日本画壇の重鎮として活躍しました。
鷗外さんが小倉にいた頃は、ちょうど公職を辞し長府に隠棲していたようです。
山口県の名勝「長門峡」や、「青海島」の名付け親でもあります。


四日。雨乍ち起り乍止む。福岡の人水野香村印三顆を刻して寄す。曰觀潮樓主、王延年の集古印譜を師とす。森氏高湛、梁千秋を學ぶ。曰曾在豐國、篆體常の如し。香村名は魯、籀古堂と號す。
五日。晴雨定まらず、稍寒し。

4日、雨が突然降りだしすぐに降りやむ。
福岡の篆刻者、水野香村が3種類の落款印を届けてきた。
「曽在豊国」、「観潮楼主」、「森氏高湛」(親子獅子鈕付角印)の3種類で観潮楼主人(鷗外さん)は、清代の王延年が編纂した印譜を手本としています。(源)高湛とは鷗外さんの諱(いみな)、梁千秋は揚州の人。これらの落款印は森鷗外記念館に所蔵しています。

曽在豊国:25×52×131(mm)/石/水野香村刻


観潮楼主:55×55×136(mm)/石/水野香村刻


森氏高湛:55×55×136(mm)/石/水野香村刻

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