これは、備忘録である。

2021年9月9日。
これは今日の日付。

2021年9月6日。
これは3日前のことであるが、この日は私の中で、悲しい日となってしまった。
大好きな人が天国へと旅立った日である。
大正に生まれ、4つの時代を生きた人と今日、お別れをしてきた。
ここから綴るのは備忘録である。個人的なものになるが、書きたいから、形にしておきたいから綴ることにする。

連絡があったのは、前日の昼間のことだった。
その日はたまたま出勤日で、いつも通り仕事をしていたわけだが、母からその人がもうすぐお迎えが来るという旨を聞いたとき、私は驚きはしなかった。
いつそんな連絡が来てもおかしくない年齢だったし、自分の中でも、何処かで覚悟のようなものはしていたのだろう。ついに来てしまったのか。それが真っ先に思ったことだった。
とはいえ、精神的には堪えるものがあった。気を抜けばすぐにでも崩れ落ちてしまいそうだった。仕事場で、客の前で泣くことだけは避けたかった。その日は恐ろしく冷静で、いつ何が起きてもいいように、仕事の引き継ぎ周りの準備だけは怠ることはなかった。家に帰っても、ずっと気が張っていた。この緊張が解けたら吐いてしまいそうなくらいだった。体は疲れているけど、ろくに眠れなかった。何時、旅立ってしまうかわからないことがこんなにも怖いことだとは思わなかった。それでも、涙は出なくて、バラエティを見て、友人と通話を繋いで、げらげら笑って気を紛らわせていたのだ。

訃報は、翌日の昼間だった。
やはり、涙は流れなかった。とにかく何もする気力が起きなくて。それでも家族、上司には連絡しなくてはならない。
仏事の日程が決まったのが夕方。次の日出社して2日休みをもらう段取りを決めて、移動手段やスケジュールを決めて、気づいたら夜。
流石に何も食べないわけにはいかないからご飯買ってきて食べながら、また気を紛らわせるために動画サイトに篭ることにした。
この日も、ろくすっぽ眠れなかったけど。

翌日。
休み明けは毎週会議があるから出社が早い。なんとなく寝たかな?ぐらいの頭を働かせながら仕事に出た。自分が働くチームには、自分より若い社員がいない。先輩方に心配をかけることに頭を下げて、今週あるスケジュールや仕事を全部キャンセルし、仕事の調整をかける。お客様の対応をして、気づくと退社時間。代わりに勤務してくださるエリアのトップに一言連絡を入れて、退社する。バタバタしていた。それが逆にありがたかった。詰まってる息を吐くと涙が出そうだった。「大丈夫?」と聞かれても珍しく「大丈夫じゃないです」と返すくらいには悲しかった。それでも、仕事は仕事だからと淡々とタスクをこなすことで精一杯だった。上司の手を煩わせることなく済んで一安心した。
帰宅して、荷物を詰める。
涙は、やっぱり出なかった。理由はわかっている。まだ、本人に会ってないのだ。1番最後に会ったのは、コロナ禍の前。もう2年になるだろうか。自分が今の会社に就職することが決まってから一度会いに行った。もう100手前になるというのに、平家で一人暮らしをしていたその人は部屋の中も歩き回るし、帰る時にはお見送りにわざわざ家の外まで出るような人だった。見送りされずに家に帰ったことは一度だってなかった。
自分の記憶の中には、元気なその人しかないのだ。だから実感なんて湧くわけがない。急に呼吸が浅くなってる、亡くなったなんて言われても、ぽっかり穴が開いてしまったくらいの感覚なのだ。
その日も、寝付きは良くなかった。

9月8日。
準備して、新幹線に乗ったのは昼前。途中で降りて、弟と合流し目的地へ向かう。この日は雨だった。弟たちは生前のその人に会っていた。きちんと泣いたという。そうか、よかった。話はままならなかったと聞くけど、それでも会えたというなら幸せなことだ。
久しぶりに向かった目的地への道中は明るいものだった。弟たちに会ったのも半年ぶり。近況を話すだけで道中の時間が潰れるほどに話すことは山ほどあった。
斎場に着いて、両親に挨拶をする。2人に会うのも半年ぶり。まったりのんびりしてて拍子抜けしたが、それもそのはずである程度の準備は終わっていたし、通夜が始まるのは数時間後。弔問にいらした方の対応をするために早く来ているのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
通夜の会場に入った瞬間だった。突然、本当に突然涙が溢れた。遺影を見て、その前にある棺を見て、ぶわぁっと涙が出てきて止まらなかった。嗚呼、もうこの人の動いている姿も声も見聞きできないのか、と思った。それと同時に安心した。良かった、泣けた、と思った。
自分は家族が亡くなっても泣くこともできないくらい切羽詰まってるのか、薄情になったのか、と自宅にいる時に気が気ではなかったから。
母に、棺の中見れるから、見ておいでと言われたが、とても見られなかった。見たら泣くことが分かっていたから。この日、その人の顔を見ることは一度もなかった。
情けない話だが、自分の涙腺はどうにも馬鹿になりやすく、一度流れてしまった涙は間隔を開けて、度々流れてくるようで、通夜の後半、弔問客の対応を終えて、家族だけでご飯を食べている間、色んなところで涙が出た。もうそれは、ハンカチがびしょびしょになるくらいに。
こんなことあったよね、こんな話したよね、思い出は尽きることはなく色んな話が出てくるから。通夜の際にお経を読んでくださったお坊さんが教えてくれた。通夜は「夜を通す」と書くが、これは釈迦が亡くなった時に弟子たちが夜通し釈迦から貰った教えを話し合ったところから由来するそうだ。自分たちも夜通し、話した。たくさん笑って、たくさん泣いた。
この日は、前の日ほどではなかったけど、それでもやっぱり寝つきが悪かった。

9日。
朝が早かった。全て終えて実家に帰ってから昼寝を決め込むくらいには眠かった。
午前中に、荼毘に伏す段取りだった。棺を開けて、初めてその人の亡くなった顔を見た。穏やかだった。綺麗に化粧が施されていた。もうそれだけで涙が出る。この日も自分の涙腺は阿呆になっていた。前の日よりも我慢が効かなくて、何度呼吸を整えようとしても、何度目を閉じて冷静になろうとしてもずっと泣いていた。
思い出の品が棺に入る。お花で周りを飾って、棺を霊柩車に乗せる。
荼毘所に向かう道中は、その人と訪れた場所で埋め尽くされていた。スーパーだったり、病院だったり、郵便局。取り止めのない日常のたった一部の光景なのに、それを見るだけで涙が止まらない。思い出してはまた泣いてしまう。
荼毘所に着いて、お経を唱えてもらって火葬に移る。もう、目なんて開けていられなかった。次に目を開くときは目の前に棺はない。わかっているのに、理解したくなくて。合掌する手に力がこもった。きっと不恰好だったと、思う。告別式が終わり、お墓にお骨を入れて、一才の仏事がひと段落した。

人の死に直面したのは、これで4度目である。どの、お葬式よりも泣いた。いい大人になってみっともないと思ってしまうが、それでも堪えることができなかった。
その人の家に行くと、必ず自分の名前を呼んで出迎えてくれる。色んな食べ物を出してくれて、今何をやってるんだ?って近況を尋ねてくれる。大学に入学した時も、会社に就職した時も、手放しに褒めてくれた。「すごいねぇ、」って言ってくれるその声が、優しくて暖かかった。その人が歳を取っても自分の名前を覚えてくれることだけでも嬉しくて。会う回数が減っても顔を覚えてくれていることに安心して。会いに行くのが楽しみだった。一緒におしゃべりすることが大好きだった。思い出が詰まりすぎてて、何か一つきっかけがあると10も100も出てきてしまう。こんな経験は生まれて初めてで、葬儀が終わって今尚、また泣いてしまうのだ。笑顔で思い出を語るにはもう少し時間が必要らしい。

その人が母に、長生きする秘訣を教えていた。たくさん笑うこと。その人から笑顔がなくなったところを見たことがない。優しさと暖かさと笑顔の溢れた人だった。そんな人になれるだろうか。なりたい。またひとつ夢ができた。

そして、10ヶ月が経って、ようやく公開しようと、思えた。
自分の気持ちを整理するために、投稿しようと思えたのだ。
先日、その人がずっと住んでいた家の解体工事が終わった。母が写真を撮って家族のグループLINEに送ってくれた。
母は、どんな気持ちで見ていたのだろうかと思うと、心臓が痛くて堪らなかった。
私ですら、思い出が詰まっている場所が平らになって、その日はまた仕事が手につかなかったというのに。
もう彼の地を訪れる理由が、私にはほんの少しだけしか残されていないことがこれ程までに辛いというのに。

その人と、その人が大好きな人の位牌は自分の実家に仲良く並べられている。
実家に帰った時に、会えるんだと思うことにする。
まだ時々思い出しては、心臓が鷲掴みにされてしまうけど。
あの人のように、たくさん笑って生きていこうと、そう思えた。


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