ドライな?アメリカ人 v.s. 気を使う。。日本人

次の会話は、シアトルに到着したばかりの日本人A氏と、彼を迎えにいくはずだったアメリカ人のB氏との会話です。会話は英語で行われていますが、ここでは敢えて日本語に翻訳して紹介します。

みなさんはどう思うでしょうか。

「もしもし」

「ああ、デビットさん」

「無事にシアトルに到着したようですね」

「はい」

「ところで、今日オフィスに来ていただく件ですが、残念ながら私が急用で迎えにいけなくなりました。タクシーだとかなりコストがかかるので、レンタカーか何かでこちらまで来ていただきたいのですが」

「あの、アメリカは今回が初めてなんですけど」

「それはいい。楽しんでくださいね」

「————」

Aさんが、「アメリカは今回が初めてなんですけど」となぜここで言ったのでしょう。

日本人ならきっと、Aさんはアメリカがはじめてで、多分不安になったのではと思うのではないでしょうか。あるいは、アメリカ人のドライな対応に腹も立てたかもしれません。

しかし、そんなAさんの意図が相手には全く伝わっていないことがわかります。Bさんは、Aさんのアメリカは初めてだという言葉を、その真の意味ではなく、言葉の表面の意味するところだけをとって、あっけらかんと楽しんでくださいねとこたえたのです。

ここで起きていることは、相手に苦情や不安を表明するときにはできるだけやんわりと和を保ちながら間接的な表現でその意図を伝えようとする文化と、コミュニケーションをするときに、言葉そのものの意味することを相手の意図と考える文化との違いからくる誤解なのです。Aさんはもとより、Bさんも全く悪気なく、楽しんでねとあたかも相手を祝福するように話しているのです。

しかし、Aさんからみると、「Bさんはなんて思いやりのない人なんだ」と思ったかもしれません。

「あの、アメリカは今回が初めてなんですけど」といえば、意図が通じていると思うAさんですが、アメリカのコミュニケーション文化に照らしてみれば、この一言は今までの会話との関連性もない唐突な一言です。

迎えにいけず、レンタカーをしたらという提案と、アメリカが初めてだという一言は、理論的には噛み合っていません。

「あの、それは困りましたね。実は僕はアメリカに来たのは初めてで、どのようにレンタカーをしたらいいのかも、そちらへ行くための地理もわかりません。何か良いアイデァアはないでしょうか」

と言えば、会話は噛み合います。日本人は言外の意味を込めすぎているのです。あうんの呼吸でわかってもらえるだろうと期待しがちな日本人は、本当に言いたいことを、理路整然と話すことに慣れていないのです。

海外で仕事をしたり、話し合いをしたりするときに、常に「あれ?」と思う瞬間があり、それが異文化の罠なのだということを察知する習慣をつけることが、まずこうした誤解のリスクを軽減する第一歩です。

そして、こうした誤解があったときは、即座に自らの判断で相手を評価せず、柔軟に対応しながら、相手のコミュニケーション文化に慣れてゆく努力も必要なのです。

世界中でおきている誤解、そしてそこから生まれる怒りや摩擦、失望の殆どが、こうした実に単純なコミュニケーション上のミスから発生していることを、ここで強調しておきたいと思います。

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