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始めてシカを獲った日

そのシカはぼくが構えたスコープの中で、こちらを見ていた。

危機を感じている目でもなかったと思う。

「なんだろう?」

そんな好奇心の目に見えたけど、もちろんぼくはシカの表情なんて読めないし、シカが何を考えているのかだって分からない(安易に動物の考えを日本語に置き換える行為が好きではない)。

構えた銃の引き金を引けばあのシカは死ぬ。引くのをやめれば、もちろんシカは死なない。その瞬間にぼくは何を思っただろう。

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獲物を仕留める場面は狩猟という行為の中でピークであり、ゴールであると思っている人が多いだろう。実際には狩猟に取り組む時間の中で仕留める場面というのは極めて短い時間であり、狩猟の大半の時間は獲物を探し、追い、逃げられるというような地味で静かな場面で構成されている。

初めての1頭を目の前にするまで、ぼくは何度となくシカに逃げられていた。

どうにかシカを見つけることはできていたものの、射程距離に入り、弾を入れ、構えて撃つところまで持ち込めないのだ。鉄砲は撃てば当たるというもんでもない。当たる距離にまで近付き、ちゃんと当てられるように構えるのには技術がある。

良いチャンスに巡り会っては、それを逃すことを何度も繰り返していた。

そしてやってきた絶好のチャンス。シカとの距離も近く、すでに照準はシカの心臓を狙っている。——始めてシカが獲れるかもしれない。そこで何を思ったか。

「失敗して後悔するのはごめんだ」

たぶん、こんなことを考えていたように思う。じつは目の前に数頭のシカがいた。その先頭にいたオスジカに狙いを定めていたのだけど、本当は少し後ろにいるメスジカを獲りたかった(メスの方が味が良いとされている)。だから狙いを変えて後ろのメスジカを狙うことを、この後の及んで考えていたのだ。

「だめだめ、銃を動かせば絶対に逃げられちゃう。また後悔するのかよ」

そういう心の声が聞こえた。

「でも……」
「撃たない言い訳を考えるな」

撃つ前にやるべき安全確認も終わっている。撃てばいい、というのに心のどこかで撃たない方がいい理由を探している不思議な感覚があった。

「撃て」

そんな心の声と一緒に、エイヤっと引き金を引いた。引き金を引くときはぜったいに力んではいけない。エイヤッと引くのはもっともダメな引き方だけど、そうでもしないと引き金を引けなかった。

シカは飛び跳ねた。

後ろにいた数頭のシカも驚いて跳ねて四方に散っていった。

ぼくが撃ったシカは斜面を落ちていった。右往左往しながらも、そのシカを見つけたときにはすでに事切れていた。

「ああ」

あらゆる感情が入り交じっていたけど、「よし!」と溢れる喜びが大きかった。

ここに至るまで凄い時間をかけてきた。猟期になる前から山に入って獲物の動向を調べて、沢山の本を読み、人から助言ももらい、射撃の練習もしてきた。

「この1頭のためにやってきたんだ」

という思いが込み上げてきた。遠くでピーーっと鳴くシカの声がする。たぶん、散っていったメスジカだろう。散り散りになったシカの安否を気遣っているのか、不安で助けを求めているのか、はたまたなんらかの生理現象なのか……。

その声に意味を持たせるのは自分だ。やっぱり自分が仕留めたシカの安否を気遣っているように思えた。そのシカは目の前で息絶え、ぼくに解体されようとしている。

命は不可逆だ。

死んだら生き返らせることはできない(と思っているけど、未来はどうなるのかな)。あの引き金を引くことは、まさにその一線を越える瞬間であり、それ以降はもうやり直しがきかない。

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シカをザッと解体し(と書けば簡単なことだけど、実際にはすごく苦労した)、それを背負い、山を降りた。下山間際、山を振り返り思ったことがある。

「山のシカが1頭減って、その分、自分の食料が増えた」

当たり前のことだけど。当たり前のことを再確認させられた日だった。

その日食べたシカ肉はとても美味かった。

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