ルーチンを作ることについて、表現と五感から考える

表現(なんらかの事象・意思をある人がなんらかの手段で再現すること、とします)において、五感について考えることは大切なことなんじゃないかと僕は思っています。

もっと言えば、「思考」も含めて六根とか六識とか仏教用語がでてくるのですが、なじみが薄いのでここでは五感という言葉を使います。
六根の「意」にあたるものは「思考」と表します。

概ね、表現方法によってどこの感覚器官で主に受け取らせるかが決まってきます。
音楽は聴覚、絵は視覚、言葉は思考など
言葉の中でも、
文章は視覚から入って思考がメイン(文字だけ見てなにか感じるわけではない)
喋ることは聴覚から入って思考がメイン(喋る音だけ聞いてなにか感じるわけではない)
などとも分類できそうです。

こう考えると、触覚・嗅覚・味覚に訴えかける表現がなかなか思いつかないです。

やるとしたら例えば、
子供の頃の夏祭りの懐かしさ(おおざっぱに言ってます)という感情を引き起こさせる目的で行われる表現を、これらの感覚器官に訴えかけようとすると、

触覚⇒夏の夜の温度と湿度が肌にまとわり付く感じと屋台の煙の感触が混じった空気を装置付きの箱で再現し、浴衣を着させて(薄い布の感触)中に入ってもらう体験型の展示?
嗅覚⇒色々な屋台の匂いや夏の夜の匂い、湿度が高いときの屋外の土の匂いが混じったものを再現した匂い発生装置など?
味覚⇒複数の屋台の軽食を食べ歩きしている口の中の味を再現するなにか?

などなど、装置が大掛かりになりそうであったり技術的に難しそうなものが多いです。
一方、絵や音楽で記憶を呼び起こさせることを利用してこの感情を引き起こさせられた経験はあると思います。

個人的な考えですが、写真やレコードや本など視覚・聴覚・思考の記録・再生を手軽に行える装置は発明されて発展させられてきたため、技術的な敷居が低くなり表現の分野として発展してきたのですが、
触覚・嗅覚・味覚は手軽な記録・再生装置が発明されず、表現という面から見たときに技術的なハードルが高いままであることが原因なのではないかと思っています。
(料理や香水を感情を引き起こさせる目的で作ったときは表現といえると思います。ですが、その目的で行われることは現状では少ないと思います)

ここまでが前置きです。
ジャグリングのパフォーマンスは視覚がメインだと思います。

視覚から受け取った感覚を表す言葉を考えてみます。

赤い、青い、明るい、暗い、薄明かり、薄暗い、鮮やか、くすんだ、速い、遅い、大きい、小さい、すっきりとした、煩雑な

などなど。

この中で速いとか大きいとかは、音・聴覚でも違和感なく使う言葉です。
しかし、明るい音、暗い音などということはよくありますが、
明暗は本来、視覚に使う言葉のような気がします。

また、柔らかな絵、甘い服装など触覚や味覚を表す言葉を使って視覚を表現することもあります。

柔らかな絵を視覚に使う言葉のみで表わすのは難しく、眼で見ているのにさわり心地の柔らかさを表わす言葉が一番近い言葉に思えますし、別の感覚器官で受け取るはずの情報を感じるような気さえします。
お祭りの懐かしさの例ですと、アニメなどの夏祭りの映像を見ると昔感じた夏祭りの匂いがするような気がします(実際にはしませんが)

このように、五感同士は連想によって他の感覚器官でも擬似的に感じ取れるような気になる場合もあると思います。

以前のnoteで、僕はどうしても言葉で表現しきれなった感覚や感情のうち、保存して後で見返したいと思うようなものをポイのルーチンという手段で表現していきたいと思っています。
と書きました。

僕の、どうしても言葉で表現しきれなった感覚や感情は、なんとなくですが、さわり心地や匂い(他の感覚から擬似的に感じたものも含む)から受け取って引き起こされたものが多い、もしくは強く残っているような気がしています。

保存して後で見返したい理由も、
さわり心地や匂いは手軽な記録・再生装置がないために、それから引き起こされた感覚や感情も、擬似的にでも追体験できる他人の作った表現物が少なく、影響を受けて変化することも別の方法で解消・発散されてしまうことも少ないため、
自分にとって忘れたくない大切なものになったり、そのままの形で鮮やかに思い出しやすかったりするので、視覚で擬似的にでも保存したいのではないかと思います。

もちろん、それが全てではないですし、あまり意識せずに作ることもありますが、
こう考えていることが比率としては多めだと思います。

そのため、使う音楽も近いさわり心地や匂いを擬似的に感じ取れるようなものを選ぶことが多いです。音楽についてはまた別の機会に書こうかなと考えています。

また、映像でなく生でパフォーマンスを見る・見せることの意義もここにあると思います。
映像だと視覚・聴覚情報しか受け取れませんが、生だと演者が動くことで空気が動きますし、もしかしたら演者が集中しているとき特有の体臭があるかもしれません(ないかもしれません)。
はっきりと認識できるほど意識には昇らないですが、そういった触覚や嗅覚の情報も受け取っているのではないか?と僕は考えています。
映像など記録媒体で再生される視覚・聴覚情報も、生とは少し変わったり記録しきれていない分、生の方が情報量が多いということもあります。

最後に

五感について考えてみました。
クオリアとか、原感覚⇒脳で処理⇒感覚の流れにも触れようと思いましたがまとめる自信がなかったのでやめました。

実は、ルーチンの中で技をしていない箇所で、五感を表わす動作(視る聴く触る嗅ぐ味わう)を入れたくなります。味わうのはやるのが難そうですが…
なんとなくだったんですが、整理してみるとこのあたりのことが理由になっているっぽいなと気づいたりしました。

五感についての考え方は、漫画に影響を受けています。
ヨコハマ買出し紀行という漫画です。
雰囲気漫画っぽいですが、よくよく読むと人が認識する感覚についてよく語られています。

自分の作った作品そのものに対して、何に影響を受けたとか言葉で内容を語るとかはなんとなく野暮だと思っているのですが、
考え方への影響ならいいよねと、なんだか言いたくなりました。

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