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今みんなどうしているのだろうか(友人・知人達への手紙)

色々と転々としてきたので,ずっと連絡を取り合う相手というのも発散してしまったような気がする.
メッセージを1つ1つ送っていけば何かに当たるかもしれないとも思うが,「最近どうしてるの」から始まるやりとりを何度もする気にはなれなくて,こういう形で一方的に手紙のようなものを送ってみることにした.

知人・友人の多くは東京にいることと思う.
そして,結構な人数が社会人になったんじゃないだろうか.
東京での生活はどうだろうか.

僕はといえば,もうつくばでの生活が3年目に突入した.
つくばはどう見ても田舎の町だと思う.車社会が前提に成り立っているし,大学をメインに考えても自転車なしには生きていけない土地だ.

だけど,東京にはない「広さ」がある.
人からの距離,プレッシャーからの距離,固定概念からの距離.
「こうでなくてはいけない」という圧力から解放されて,生身の身体を基準に,その感覚を伴いながら生きていくことができる.

学部生の頃の僕を知っている人は,「あいつはきっと起業でもしたいんだろう」と思っていたと思う.
実際,あの頃はそう思っていたと僕も思う.
しかしまあ,時も経てば変わるもので,今はそういうことからは自由になっていると思う.


「東京を息苦しく感じていないか?」

今日の1つのテーマはこれである.
働いてる人からすればアホみたいな言葉かもしれないが,外に出てから振り返ってみれば,あの狭いところで「これが社会だ」と思い込んだ歪な社会の形を信じ,その中にある尺度だけで生きていくほうが狂っている,と僕は思う.

まあ実際問題,東京を離れて生きていくのは大変だ.
僕はまだ学生を続けているし,奨学金で生きているようなもんだし,独立生計を立てれるようにはなっていない不届き者である.
それでも,東京に渦巻く価値観の中でだけ生きていくことは,自分を騙すか,何かに酔うか,見て見ぬ振りをするか,忘れるか.
そんなことが強要される歪んだ世界だと思う.

この話のために1つ例をあげるなら,それは『死』についてである.
『死』という圧倒的に・絶対的に肉体的な事実と対峙した時,
その社会・その価値観に息はあると思えるかということです.
見えない概念に最期まで付き合いきれるのか,ということです.

全てを否定したいわけではない.自分自身は極端だし,極端を試さずにはじっとしていられない病気なだけである.
僕の知らないところで,多くの人は幸せになっていくと思うし,それを願っている.
だから,まあ少し聞いてみたいだけだと思う.

『今みんなどうしているのだろうか』


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P.S.
社会的な僕の今の形を伝えるならば,研究と自分自身の制作の模索を繰り返す日々である.
研究だって,純アカデミアの中でだけ考えればいいものではないし,金出先生の言葉で言えば
「良い科学は必ず現実の問題に応答する」
研究という手法を通して常々社会を観察し,手元でのプレ実験を繰り返しているわけだ.
そういう経験から翻って,東京で定義されている「社会」あるいは「人間」の価値観だけに縛られるのは,生きていく上で危うさを孕んでいると思うのだ.

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