父を亡くした青年というレッテル

年度の末も末.3/31は自分の父の命日となった.
父は数年前に癌が発覚して以降,いくつかの治療を経てきており,今年に入ってからは体調を崩したり手術を受けたりで,予測され得た事態への収束ではあった.

それでも,病院から連絡を受けたその日に亡くなるとまでは思っていなかったし,その日息を引き取る瞬間に立ち会うことになるとも思っていなかった.
振り返ってみると奇妙なもので,亡くなる前日の夢に珍しく父が出てきたのであった.そういうこともあるんだな,と思わざるをえない経験になった.

そんなこんなで,葬儀はまだこれからであるものの,数日を経て落ち着きを取り戻しつつある中,困っていることがあった.
どうやったら周囲に自分の状況を適切に伝えられるのかがわからないのである.


高ストレスな状況下で自分自身を正しく見定めるのは非常に困難であるが,おそらく僕は今わりと元気を取り戻してきている.
その理由として考えられるものは以下の2つである.
①癌という,ある程度の時間を伴う死への道のりだったこと
②息を引き取るまでの数十分に立ち会っていること

①はすなわち死への心の準備である.
突然誰かを失えば,それは相当の精神的負荷であり,立ち直るにも時間がどうしても必要になる.
一方,癌というのは発覚した瞬間はかなりの衝撃を伴うが,急変しない限り,一定の猶予期間がもたらされ,少しずつ心の準備ができる.

②は,初めての経験だったし,精神的にかなりきつい時間帯でもあったが,生〜死という地続きの状態変化が伝えてくれるものは計り知れなかった.
この経験がありのままの事実と向き合える状態を生み出してくれていると思う.

この2つから,「父を亡くした」という言葉から想像されるしんどさよりは元気な状態であるように思えるのだ.
(親を亡くす年齢としては,平均より10~15年早いはずなので,周囲の多くの同年代の人にしてみるとリアルには想像しづらい出来事だとも思う)


ここで困りごとに戻るわけだが,「父を亡くした」という話と僕の元気加減にどうか順応して欲しい,というのが結論である.
もちろん,これまでの平素に比べたら活力は低めかもしれない.
しかしそれなりに元気でもある.
そのことを穿った目で見ないで接していただけたら,という話である.
(※もちろん自分自身を今見誤っていて,後々大きく崩れる可能性はある)

それぞれの人に家庭の状況があり,歴史があり,人間性があり,そして結果や捉え方が変わってくる.
なので,まあ僕の今回のケースはそういう感じなんだな,とありのままに見てもらえれば助かります.

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