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じっと立ち止まり:聖書をめぐる旅 8/2

8/2(火)
 ハバククの神様との問答の最後は、神様の勝利へと突き抜けた感じがあります。また、ゼファニア書は、真の神様を礼拝する人間の在り方に立ち返ら得せてくれます。

ハバクク書3章 

1これは、ハバククが主の前で歌った勝利の祈りです。
6神はしばらくの間じっと立ち止まり、 地上を見渡します。 それから国々を揺り動かし、 今までびくともしなかった山々を打ち砕き、 丘を平らにするのです。 あなたの力は変わることがありません。
18‭-‬19私は主を喜びます。 私を救ってくださる神のおかげで幸せです。 神、主は私の力です。 私を鹿のように速く走れるようにし、 山の向こうに安全に連れて行ってくださるのです。 (聖歌隊の指揮者のために。 この頌歌を歌うときは弦楽器の伴奏で歌うこと。)

 ハバクク書の最後の章は、勝利の祈りになっています。
「神様がしばらくの間立ち止まる、そして地上を見渡す」という
表現に注目しました。
全地全能の神様ですら立ち止まられる、山を打ち砕き、丘を平らにするのに立ち止まられます。
その山は人間の高慢の山だったり、丘は人間の自己中心の丘だったりするのかもしれません。これらを平らにするのは、神様にとって簡単なことかもしれません。
しかし、そこに紐づく人間の生活や人間の人生を神様は立ち止まって、見ておられるのです。神様は人間の痛みや、喜怒哀楽をご存知の方です。
神様は動かれる前に、立ち止まる方です。
そして、私たち人間も今立ち止まって、立ち返る場所にもう一度立つことが求められていると思いました。


ゼファニア書1章

4‭-‬5わたしはこぶしでユダとエルサレムを打ち砕き、 残っているバアルの礼拝者を断ち滅ぼす。 偶像に仕える祭司を抹殺し、 そのため、彼らの記憶さえ消え去る。 彼らは屋上に上って、太陽や月や星を拝んでいる。 『主に従っている』と言いながら、 モレクをも礼拝している。 わたしは、そんな彼らを滅ぼす。
7静まって、主の前に立て。 主のさばきの恐ろしい日がくるからだ。 神はご自分の民を虐殺する手はずを整え、 死刑執行人を選んでいる。
18あなたがたの金銀も、主の怒りの日には役に立たない。 そんなもので自分の身代金を払うことはできない。 神のねたみの炎が、全地をなめ尽くすからだ。 神はユダの民すべてをたちまちのうちに取り除く。


 ゼファニアはユダが滅ぼされる紀元前587年の数十年前に活動した預言者ということです。ヨシヤ王はゼファニアの預言で奮起し、紀元前621年に徹底的な改革を進めました。しかし、この改革は現実性に乏しく、人々は悪の道に逆戻りしたといいます。
 1章、ゼファニアは主の裁きの日のことを警告しています。
それは、ユダの人々が神様を礼拝しているとしながら、偶像を拝んだり、太陽・月・星を拝んでいることを神様が知っておられ、彼らを滅ぼすとあります。主の裁きの日に、神様は死刑執行人を選んでいるという、厳しい言葉になっています。
 これくらいは・・・ということが、死に値することであるのは、十字架刑にイエス様がつけられたことに関連します。人間の罪の性質は、死に値する大きな問題です。私も振り返ってみると、神様に背を向けて自分の力で生きようとすることが、十字架刑にあたるとは、考えたこともありませんでした。しかし、自分らしく生きようとすればするほど、空しさと自暴自棄に陥ります。人は一人でいるのはよくない・・・とアダムにエバをおくってくださった神様は、人間が孤独に生きるのではなく神様と共に歩むように作ってくださっています。イエスキリストの名前にはインマヌエル、主は共におられるという意味があります。私たちは、偶像や天の万象に頼って生きるのではなく、生ける神様と共に生きるようにつくられた存在です。
 


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