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八百屋の黒板の物語  「ぽんかん」

 夫の母親である佐和子さんのギプスに気付いたのは、加奈が家族と義実家を訪れた今年の元日のことである。右足の足首から先に小さめのギプスをしていて「液体ボールドを落としちゃってね」などと佐和子さんは小さく笑っていた。小柄なのでソファーで脚を伸ばして座っていても邪魔にはならない。けれどいつもの正月なら動き回っている彼女が座っている。それだけで孫たちにとっては珍しいらしく、彼女の周りは終始賑やかだった。
 手術こそ無かったものの、松葉杖の生活である。何かと手伝いは必要だが、いまだ現役で働く義父も勤め先を休みづらい。そこで彼女は、身の回りの世話をさせるため、隣県に嫁いだ娘の弘恵を呼び寄せた。近所に住む加奈を差し置いてである。
「ほら、この辺は街中で便利だけど、右足だから運転も出来なくて、ホントに大変だったんだから」
 と義姉は大袈裟に嘆いて笑った。実の弟であり、加奈の夫の伸太郎はこういうふうにあけすけと大きな声で喋る姉が苦手で、小さかった頃の散々な口喧嘩の夢を今でも見るという。
 クリスマスの午後にタクシーで近所の外科を訪れた佐和子さんは、そのまま病院に3日ほど入院したのち、暮れの28日に退院した。その後は義父も早めの正月休みにしてもらったというから、義姉が言うほど大変ではなかったのだろうと加奈は疑っている。そんなことよりも、と加奈も大袈裟に嘆く。
「近くに住んでいるんですから、言ってくださればよかったのに」
 加奈の家族は義実家のマンションから車で十五分程の所に住んでいるのだ。
「だってお仕事が忙しいって言ってたじゃないの」
 すぐさまそう返してきた佐和子さんは、周りの孫たちに同意を求める。

 加奈は自宅でフリーランスのネット通販をしている。とある人形シリーズの衣装を作る仕事だ。子供たちに手がかかる時期は細々と営んでいたのだが、末の子が中学生になった昨年あたりから精力的に動き始めた。活動の甲斐あって、著名な愛好家の目に止まってSNSに載り、それがバズってしまった。以来、問い合わせや依頼の連絡は絶えない。
 それでも、と加奈は思う。義母のことを「佐和子さん」と呼べるほどの友好的な関係であるし、そのうえ読書家で博識な彼女に、コレクターの意味のわからないオーダーについて何度も相談したこともある。加奈にとって、義実家で土産に持参した果物をつつきながら過ごす午後は、リラックスできる時間でもあり、また刺激的な時間でもあった。
「仕事の時間は何とでもなりますし、何なら、ここに持ってきて出来る作業だってあるんですから」
 加奈にそう言われても、佐和子さんは首を傾げて悩んでいるようだった。義父が
「そう言っているんだから、手間賃を出すから遠慮なく甘えておきなさい」
 と勧めたので、佐和子さんは仕方なしに頷いた。
 掃除や洗濯はリハビリがてらできるからと彼女がいうので、加奈には食品と日用品の買い出しと、何品かの料理の作り置きを頼んだ。加奈はこれを機会に、お袋の味とやらを教えて貰おうかと企んでいる。

 義父母の住む部屋は、市の中心部、新幹線が停まる駅の地味な方の入り口から、五分ほど郊外へ歩いた所にある。築五年で十四階建ての分譲マンションの十階、一家四人暮しの加奈の部屋より広い。
 一月にしては暖かい午後、佐和子さんはダイニングで加奈に淹れてもらったアップルティーを飲んでいる。そこから出す的確な指示で、加奈が買い込んだエコバッグ二袋分の荷物が、冷蔵庫と食品棚にあっという間に収まった。加奈も同じアップルティーを淹れて佐和子さんの対面に座る。
「世の中の人は分類したがる、ってレコード大賞で言ってたけど」
 と佐和子さん。動けない分たくさんテレビを見ているらしい。
「世の中には果物を食べない人がいるんですって」
 ちょっとだけ佐和子さんは声をひそめた。
 加奈の育った家も義実家も、どちらも果物をよく食べる家だった。目立つところに必ずミカンかバナナが置いてあったし、季節になると産地から果物を箱で送ってもらった経験が両家にあった。実家から貰ったリンゴを義実家にお裾分けに来たら、お返しに梨を貰ったこともある。
 今日も佐和子さんは温州みかんの皮を剥いている。
 そういえば、と佐和子さんが顔を上げた。
「マルモリの黒板はなんだった?」
 と、加奈に訊いてきた。
「何ですか?マルモリの黒板って」
 加奈には質問の意味がわからない。
「ほら、コインパーキングからここに来るまでの間に、八百屋さんがあったでしょ」
 から始まる佐和子さんの説明を要約するとこういう事だった。
 義実家から一番近いコインパーキングの、道路を挟んだ北側の角に「まるもり商店」という青果店がある。裏通りにあって、外装は古臭いし、客がいる気配もないけれど、商品の鮮度と品揃えが良い不思議な店なんだそうだ。
 その角に面した古臭い外壁に、映画館のポスターぐらいの大きさの黒板が掛けてあって、時々変わる絵の腕前が中々らしい。
「どんな絵なんですか?」と加奈が尋ねると、佐和子さんはスマホの画像フォルダをめくりながら見せてくれた。
「主に野菜とか果物の絵なんだけど……。従業員さんが描いているらしいから、描き方も色々で、出来も良いときと悪いときの差が激しくってね。まぁそれが逆に気になっちゃうのよ」
 黒板は学校にあるような緑色のものではなく、カフェや居酒屋にある黒いタイプだ。そこにリアルなチョークアートで、野菜や果物が大きく描かれている。確かに見せて貰ったいくつかの画像には、大まかにいえば美術を職業にしている加奈からすれば拙い出来の絵も混ざっている。でもそういう絵に限って、何かのパロディだったりして、元になった映画やイベントのポスターを思い出した加奈はニヤリとしてしまう。
「ね、気になるでしょ?」
 黒板の絵の写真に混ざって流れてくる、義母の写真の交友関係の広さも実に興味深いのだが、そのあたりは加奈には口にできない。うなずく加奈は、ふとある画像にアルファベットの羅列が書いてあることに気づいた。
「佐和子さん、twitterのアドレスが載ってますよ、この黒板」
 小さな店でもSNSをやっているのが当たり前のこの時代、アナログからデジタルへの架け橋が、店頭の黒板なんてちょっと面白い。加奈は自分のスマホのアプリを起動して、アルファベットを打ち込んだ。
「QRコードをチョークで描くのは流石に無理ですよね」
 そう言いながら、まるもり商店のtwitterアカウントを表示して、そのまま渡す。


 そこには袋に詰められたぽんかんの絵が描かれていた。
 ぽんかんとは、台湾原産の温州みかんの一種である。果実はみかんより少し大きめで、四国や九州で主に生産されている。味はさっぱりとした甘さで、汁気はやや少なめの柑橘類だ。
「うちの家族にはね、タネが入ってるみかんはホントに不人気なの」
 そう言う佐和子さんは、画像を拡大した画像をまじまじと見ている。
「でも本当はわたし、汁気の少ないみかんの方が好きなんだよね。ほら、仏壇でみかんがシワシワに萎れる事ってあるでしょ。あれがすきだったのよ、ちっちゃい頃」
 そう言って佐和子さんが背伸びをした。
「ありますよね、いつの間にか自分の好みが、旦那や子供の好みとすり替わってることって」
 加奈は立ち上がった。
「折角だから、ちょっと買ってきます。黒板の実物も見たいし」
 これだけデカデカと描くのだから、相当にオススメなのであろう。
 ぽんかんを食べた佐和子さんはどんな感想を言うのだろう。それより夫と子供たちが食べたら、どんな反応をするだろうか。加奈は自宅用にもう一袋買うことにした。


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