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八百屋の黒板「南から新じゃが」

 計量カップが割れた。
 正確に言えば、ぬるま湯で作った出し汁をカップで計ったら、ひびが入った。

 このカップ自体、日奈子が離婚した当時に急いで買い揃えたもののひとつであるから、もう10年使っている事になる。
 完全に漏れ出す前に、カップに醤油とみりんと酒をくわえて、作りかけの牛丼の鍋に入れる。そして玉ねぎと牛肉が浸るように鍋を揺らした。
 日奈子は一息ついて、シンクの上にできた漏れ出した出し汁の輪を布巾で拭き取った。

 日奈子はカップが欠けていないことを確認しながら、離婚してからの長さを思う。別れた旦那と生活していた当時や、一人息子の健人が生まれてすぐの頃ならば、中身ごとカップを捨ててしまったんだろう。
 日奈子は、軽くすすいだ計量カップを不燃ごみのゴミ箱に捨てた。そして仕事帰りに買って帰ろうと、スマホのメモアプリに『計量カップ』と打ち込んで、明日の夕方に音が鳴る様に設定した。


 元の夫とは、今でもたまに連絡を取り合う関係だ。
 そもそもの離婚の原因が元夫ではなく、姑を代表とする義実家の過干渉であったこともある。が、この関係が続いている一番の要因は、元夫は今年小4になる息子の健人との距離感の絶妙さにある、と日奈子は考えている。
 元夫自体、新しい家庭を持っているし、健人にも三人が家族だった頃の記憶はない。だが血の繋がりのせいか彼ら二人は気が合うらしく、お互い連絡を取り合い、たまに出かける。
 そのお出かけが二人きりなのか、新しい家族も一緒なのか、日奈子は知らない。

 百均で計量カップを買い、地下のスーパーで晩ご飯のカレーライスの材料を揃える。
 カレールゥと玉ねぎとにんじん、さつまいもを買う。カレールゥの辛さは甘口から中辛に変わったけれど、さつまいもを入れるのは健人が幼稚園の頃から変わらない。
 変に定番メニューに手を加えると、子どもは食べなくなるというのは、健人に限らずよくある話だ。


 エコバッグを下げた日奈子が家に帰ると、ほのかにカレーの匂いがした。匂いの元をたどると、キッチンで背伸びした一人息子が鍋を覗き込んでいる。
「お母さん、計量カップはどこ?」
 健人は、母へおかえりという前にそう質問する。
 元々、目玉焼きやホットケーキくらいなら、自分ひとりで作れる様には教えてある。だが、日奈子自身がカレーを作ろうとする日に、先にカレーを作られるとは。
 日奈子が笑いをこらえながらエコバッグから取り出して新品のカップを見せると、
「タイミングわる!」
 と健人が変顔をした。

「この前、お父さんに会った時『なんか、食いたい物でも食え』ってお金もらったんだけど」
 水っぽいカレーにルゥを足す日奈子に、横から健人が力説する。
「なんだかうちは食いたいもの食わせてもらってない様な言い方だったからさ」
 元夫よ、息子の成長を見誤ったな、と日奈子はほくそ笑んだ。

「で、学校帰りに何が食べたいか考えてた時、まるもりの黒板を見たんだ」
 まるもり商店は近所の角地にある昔ながらの八百屋さんだ。野菜や果物は新しくて安いが、その他の食品は申し訳ないほどの種類しか置いてない。
 そして店の名物は、角に面して飾られている黒板アートである。頻繁に描き変えられる黒板には、季節の野菜や果物がリアルに描かれていて、道行く人の目を楽しませている。


「でさ、そこにじゃがいもが描いてあって、なんか急に『じゃがいもの入ったカレーが食べたい』ってなってさ」
 そう言えば、ラジオで南西諸島で新じゃがの季節って言ってたのを、日奈子は思い出した。
「なんかここまできたら、裏面の説明通りに作りたかったんだけど」
 恨めしそうに新しい計量カップを指差した。

「では、味見をお願いします」
 日奈子は息子にスプーンを渡す。鍋からすくつた一口分のカレーを、ふぅふぅと大袈裟に冷まして口に入れる。ニヤリと満足げな表情で奇声をあげた。

「ねぇ、ご飯炊いたんだよね」
 と日奈子が尋ねる。
「もちろん、カレーの時は2カップ半でしょ」
 嬉しそうに頷く息子に
「その通り。じゃぁ、そのカップは何?」
 という日奈子の問いに、健人は天を仰ぎ、また奇声をあげた。
「あのカップってお米専用じゃないの?」


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