人生最大の二週間

早いもので9月になった。急に冷え込んで寒いので、身体が驚いているように感じる。思考の方はやや冷静で、まぁ毎年こんなものかなとも思う。
ふと、あんまり家に篭るのも良くないと思い立ち、ベランダに出て深呼吸をしてみた。すぅ〜はぁ〜。秋の涼やかな風は、冷気と共に驚きを僕にもたらす。
少し前はあんなに夏の匂いがしたのに、すっかり季節が変わってしまったかのように感じた。この心地よさが懐かしい。思わず目を閉じる。
…どうやら思考は、冷静ではいられないかも知れない。

もう3年も経ってしまったのだから。現状への焦りもあるが、忘れないうちにあの時の感情を書き起こしておくのも悪くはないだろう。22歳、人生最大の2週間のことである。


3年前の8月16日、僕にとって6期目の三段リーグは佳境に差し掛かり、ラス前を迎えていた。
8-2から足踏みして10-4と後がなくなっていた僕は4番手だったか。首位から後退した事で気が楽になったのか、その日は手が伸びた。相性のあまり良くない二人との対戦を連勝で乗り切り、12-4として最終日に望みを繋いだ。

気分良く4階のカウンターで談笑していると、続々と関西の情報が入ってきた。その時点では定かでないその情報によると、競争相手がことごとく崩れているとの事だった。
仲のいい三段が素早く計算を始めた。「君、自力だよ。」「本当?」「うん。流石に連勝しないとダメだと思うけど。」「そりゃそうだよね。」

その前の期、11-5で迎えた最終日を連敗した記憶が蘇った。上がり目は薄かったが情けなかった。今期こそは気持ちを引き締めて連勝しよう。そう言い聞かせながら帰路についた。その日はぐっすり眠れた気がする。まだプレッシャーは感じていなかった。

翌日は11時頃に目が覚め、半分寝ぼけながら将棋連盟のサイトを開いた。関西の結果を確認しなくてはいけない。

リーグ表を見た時の衝撃は忘れられない。競争相手は全員敗れていた。
4番手に過ぎなかった僕は、自力どころか残り2局の内どちらかでも勝てば昇段という、極めて有利な状況になっていたのだ。

眠気はすっかり吹き飛び、一人自分の部屋で「おいおい。」と呟いた。「ははっ」「いやぁ」
自宅の狭い空間をひたすらぐるぐる歩き回った。少しずつ事の重大さを理解しつつあった。
間違いなく幸運が降りかかっていたが、喜びの感情はすぐに、とてつもないプレッシャーに変わって僕にのしかかった。

プロになるかも知れないという実感を、初めて具体的に感じたはずである。それは息が出来なくなるような重みだった。
あの感情の重みが、今となっては記憶としてしか残っていないのが本当に残念だ。プロ入りして3年、あの時の重みに似た気持ちすら、抱いた事はない。あれくらい重い勝負をしなくてはいけない。

それからの約2週間、プレッシャーで本当に毎日胸が痛かった。比喩ではないのである。これだけ有利な状況を作って四段になれなければ、しばらくは上がれないだろう。自分は当落線上の人間だという自覚はあった。
この1日1日を噛み締めなくてはいけない、などと思ったが、ハッキリとは思い出せないのが残念である。
思い出せるのは、尋常ではない吐き気と、なぜか歯を磨きながら外を散歩をしたこと。…それと、杉本先輩とのvsで二歩を打った事。

杉本さんは首をすくめながら、「先生、大丈夫っすか?」「やばいです。」「縁起の良さそうなロールケーキ買ってきたよ。」
見ると、皇室御用達、松島ロール。とある。直接的な事はあまり言われなかった。修羅をくぐった先輩の静かな優しさである。

ああ、あれもあった。
研究会に遅れてきた高野先輩がお詫びに叙々苑をご馳走してくれた事。高野さんは申し訳無さそうにしていたけれど、僕としては、松島ロールも叙々苑も、縁起が良いなぁ、有難いなと思っていた。

他にも、何人もの先輩棋士が静かに励ましてくれた。「連勝しなさい。」
1-1で上がれると思ってはいけないという意味である。勿論、頭では分かっている事だ。こういう時の研究会はなんとも言えない空気感になる。皆、何も言わずとも、「君なら大丈夫」という雰囲気を出してくれていた。

当時のカレンダーを見ると、この2週間で7つの研究会があった。多くの方のお陰で、少しずつ冷静さを取り戻して、9/2の最終日を迎える事ができた。

ーー

深夜2時。暗い部屋に一人、ぼんやり天井を見つめる。やがて静かに目を閉じる。思考は鳴り止まない。ぐるぐる、ぐるぐる。
あの頃、毎晩自問自答していた。苦しみながら絞り出すように。「俺は前に進めるのか?」
どうしたってこの苦しみからは逃れられないだろうな、と思っていた。
大袈裟ではなく、痛みが生きている証だった。

あれから3年が経った。
100局以上公式戦を指してきた。満足のいく結果は出せていないが、道は間違いなく続いていく。本当にありがたいことだ。
今でも変わらず、一人の夜は訪れる。
少しだけ、器用になってしまった。あの頃ほど苦しんでいる自信が無い。
もっとも、それでもいいと思えるための3年だったようにも思う。痛みだけが生きている証では無いのだ。

その上で、あの頃の気持ちが今の自分に必要だなとも思う。がむしゃらにではなく、一歩一歩、踏み締めるように荊を歩こう。

改めて、自分が言うまでも無い事だが、木村一基先生の歩みを見ると、本当に言葉が無い。ただただ凄い。他の先生方も。


さあ…
しばらく、自分を追い込むような文は書かないでいた。これで少しは目が覚めるだろうか。
まずは順位戦です。一歩一歩頑張ろう。

山本博志


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