【短編】塩でとける包丁
それはよく晴れた雨の日のことでした。
わたし、ずっと太陽の光を浴びてみたくっていたのです。だからこのいつ止むともしれないお天気雨に、思いきって隅の花壇から玄関先に飛び出してみたのでした。
ああ、太陽の光とは、こんなあたたかさをもっているものなのだなぁ。
しとしとと降る冷たい雨は確かにわたしの肌を濡らし冷やしましたが、同時に降り注ぐ太陽の光はわたしの冷えた肌にじんわりとぬくもりを与えました。
とても不思議な、生まれて初めてのこのカンカク。
カンカクに酔いしれていたその時です。1人の女の子がわたしの前に立ちはだかり、そしてしゃがみ、次に大きくつぶらな2つの瞳をわたしの方にぐいっと向けてこう言いました。
「わあ、よく切れそうな包丁。おままごとにもってこいだわ!」
いいえ、わたしはナメクジです。包丁なんかじゃありません。ボケの練習でしょうか。この子は将来、お笑い芸人になりたいのかもしれません。
わたしの気持ちをよそに、女の子はわたしをそっとつかんで手のひらに乗せました。女の子の手のひらは、太陽のそれよりも確かにあたたかかったです。
女の子は手のひらに私を乗せたまま家に入り、台所に向かってこう叫びました。
「ねえ、ママ、みてみて、この包丁、とってもよく切れるに違いないわ!」
いいえ、わたしはナメクジです。包丁なんかじゃありません。
台所から出てきた女の子のお母様は、わたしを見るなり驚いた顔でこう言いました。
「あら、さやちゃん、素敵な包丁じゃない。どこで見つけたの?ちょうど今かぼちゃを切っていたところよ。けれど切れなくって困っていたの。さっそくだけどその包丁、ママに貸してちょうだいな。」
いいえ、お母様。わたしは包丁なんかじゃありませんよ。見ればわかるでしょう?見るからにわたしはぬめぬめしています。さてはお母様はプロのお笑い芸人かもしれないと、わたしは推測しました。
「あら、今日のデザートはパンプキンパイね!いいわ、貸してあげる。」
女の子はそういうと、わたしをそっと掴んでお母様に手渡しました。お母様はわたしを親指と人差し指でつまむと、まな板に置かれた大きなかぼちゃを、わたしで切ろうと試みました。お母様の指は、とてもあたたかい指でした。
このままわたしは、かぼちゃに体を打たれて死んでしまうのでしょうか。ああ、恋のひとつでもしたかったなあ!
″すぱり″
…
「あら、とってもよく切れるわ。さやちゃん、このかぼちゃの断面を見て。とってもキレイな切り口よ。きっと、おいしいパンプキンパイに仕上がるわ。」
ええ?
わたし、ナメクジだよね?
かぼちゃはわたしによってすぱりと切れて、その切り口はまるでシルクのようになめらかです。
わたしのカラダは塩で溶けるほどの水分量で、歩いた後に筋をつけるくらいのヌメヌメなテクスチャーなのですが。そんなカラダが、かぼちゃを切るほどに鋭利なわけがある?お母様は、笑いもとれる手品師なのかもしれません。
それからわたしはお母様の手によって、様々なものをすぱりすぱりと切っていきました。
にんじん、玉ねぎ、じゃがいもにぶた肉まで。
すぱりすぱりと切っていくうちに、わたしは次第に不安を覚え始めました。不安というか、怖れです。
わたしは塩でとけるのです。もしたくあんを切ろうものならわたしのカラダはみるみるとけてなくなってしまうでしょう。
ああ、たくあんだけはやめて。
その他の塩分を含むものもやめて。
塩分だけはかんべんかんべん、南無南無と、わたしはすぱりすぱりと切りつつ祈り続けました。
しばらくするとあたりにカレーの匂いが立ち込め、わたしはその香りに幸せを感じていました。
「さあさ、カレーができたわ。パンプキンパイも焼けたから切っておきましょうね。」
お母様はそういうと、わたしを使ってパンプキンパイを切りました。
わたしの鋭利なカラダはパンプキンパイをすぱりと切り、パイ生地をざくりとならしました。
カレーのスパイシーな香りとかぼちゃの甘い香りがわたしの食欲を刺激して、わたしはどさくさに紛れてパンプキンパイをちょっとだけかじりました。わたしの口はとても小さいので、ひとくちかじったって誰にもばれやしません。
ああ、なんというおいしさ!
全身で味わう、生まれて初めてのこのカンカク。
太陽よりも確かなあたたかさ。ホクホクと優しい食感と甘さを、わたしは全身に感じていました。
わたし、幸せすぎて、もう、
とけてしまいそうです。
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