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演説原稿 #コミケ街宣 #表現の自由

昨日8月13日は残念ながら台風の接近に伴い中止となり、「語る会」での実施とお聞きしておりますが、本日はこのような形でコミケ街宣が開催できますことをうれしく思います。

また、それぞれ、目指すべき社会や経済政策、社会政策など、政党による違いはあるものの、表現の自由というテーマで、それぞれの政党の皆さんと党派を超えて連携できる貴重な場を作っていただいていることには敬意を表します。

昨日(8/13)は表現の自由にかかわるたいへんショッキングなニュースに接しました。1988年に発表された『悪魔の詩』という小説の著者であるサルマン・ラシュディ氏が講演会場で刺されたというものです。日本では1991年にこの本を日本語に翻訳した五十嵐一(ひとし)さんが何者かに殺されるという事件も起きています。事件の背景についてはまだ不明ですが、表現の自由に対する重大な挑戦である可能性はきわめて高いことが推測されます。言論に対しては言論で対抗するのが大原則である、このことは強調してもしすぎることはありません。

さて、明日8月15日は77年目の終戦記念日になります。戦前、明治憲法のもとでも言論の自由、表現の自由は保障されていましたが、あくまでも「法律の範囲内において」、いわゆる「法律の留保」の付いたのものでした。

私の祖父は、戦前、帝国主義戦争反対と演説して特別高等警察、いわゆる「特高」に検束されたことがあります。治安維持法違反で有罪判決を受けたこともあります。私の父が生まれた日には、牢屋に入っていたという話を聞いたこともあります。

戦前に日本が道を誤ったのは、言論の自由、表現の自由を弾圧する一方で、真実を隠ぺいし、大本営発表を続けたことが原因の一つであることは言うまでもないことです。

当時、治安維持法という悪名高い法律があったにもかかわらず、信念を訴えた人のなかには、それがために命を落とした人も決して少なくありません。祖父に何かがあれば私自身もここに存在していなかったことでしょう。

憲法の教科書的には、経済的自由権などと比較して、表現の自由は重要な人権であると説かれています。経済的自由の規制立法に誤りがあっても、表現の自由が保障されていれば、言論によりそれを是正することができるのに対して、表現の自由を規制する立法に誤りがあった場合、その是正手段が失われてしまうからだ、と説かれます。

私は、政治の世界に入る前は、公務員試験を受験する学生さんたちに憲法の講師を務めていましたから、このような説明を受験用のテキストや模試の解説などでも執筆しましたし、実際に講義でもそのように説明してきました。教科書的な説明はそのとおりなのですが、自分にとって表現の自由というのは、教科書的な説明だけではなかなか語りつくせない価値のあるものだということは、ご理解いただきたいと思います。

ところで、議会が時として「言論の府」と呼ばれることもあるように、表現の自由にとって、最も尊重されなければならないのは、政治的な言論であることは言うまでもありません。

世界を見渡せば独裁体制の国は決して少数ではなく、表現の自由が保障されていなかったり、いわゆる秘密警察をもっている国も依然として珍しくありません。その意味で日本は表現の自由がかなりの程度保障されている国に属すると言えましょう。

それゆえに、かえって漫画やアニメなどの「表現の自由」については、政治的言論に比べると、低く感じられる人―政治家を含めて―もいることは否定できません。法律や条例で政治的表現を規制するおそれがあるものに対しては、きわめて慎重に取り扱われます。これに対して、政治の場でも、漫画やアニメ・ゲームに対しては、そもそも、その規制が表現の自由にかかわるのだ、という認識すら持たれないケース、あるいは、認識は持たれても、その規制が当然のことのように主張されるケースはしばしばある、というのが残念ながらわが国の実態です。

しかし、かつてリビアでは漫画家のアリ・ヘラリさんが射殺され、シリアではアリ・ファルザットさんが二度と漫画が描けないように秘密警察に拷問され、両手のすべての指を折られ、フランス・パリではシャルリー・エブド本社での銃乱射事件で漫画家4人を含む12人が殺されるという事件も起きています。命がけで漫画を描いている人たちもいるのです。

ヴォルテールの言葉で、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という有名なものがあります。また、アメリカ連邦最高裁判所のホームズ判事は、「憲法で一番まもらなくてはならない原理は、思想の自由―わたしたちと一致する人たちの思想の自由ではなくて、わたしたちが憎む思想の自由である」という判決文を残しています。

こうした言葉が心に響くのは、もっともである、そのとおり、というだけでなく、そうありたい、そうであってほしいと思うからではないでしょうか。

このような考え方が世のなかの「常識」であり、政治の世界でも当たり前のことであれば、名言として語り継がれることはないはずです。

漫画やアニメ・ゲームにおける表現について、嫌悪の念を抱く人たちがいるのも事実でしょう。率直に言って、皆さんのなかには、他人から嫌われる表現物を創作している人たちもいることでしょう。「嫌われる」のは、必ずしも表現規制派だけではなく、むしろこだわって作品を創作していればこそ、他のクリエイターの作品に対して、「評価できない」とか「嫌い」という感情を抱くことは大いにありえることだと思います。

「評価できない」とか「嫌い」な作品は、その人にとっては価値のないものだと思います。しかし、私たちは、創作物に限らず、思い出の品―憲法では財産権の対象となるような物―など、他人にとってはつまらないもの、くだらないもの、何の価値のない物を大切にして生きています。しかしそうしたことの集積がそれぞれの個性に反映される、個性そのものを形成しているといってもいいかもしれません。

自分が大切にしているものを他人が否定することは勝手ですし、ただ、そういう人は友人としては付き合えないかもしれませんが、それだけのことです。しかし、法律や条例でこれを制限するということは、国や地方自治体が価値のない物としてこの世から排除してしまうことを意味します。

人権を尊重するということは、その人の個性を最大限尊重することを意味するはずです。そうであるとすると、他人の権利を害しない限りは、その人が大切にしている創作物、その表現行為が規制されることがあってはならないというのが大原則である、このことは常に言い続けなければなりません。

8月8日に、オリビアニュートンジョンが亡くなりました。彼女のおじいさんがノーベル物理学賞を受賞した方だということは有名なのですが、曾祖母のお父さんはイェーリングという法学者です。大学で法律を学んだ人であれば耳にしたことがある名前ではないでしょうか。『権利のための闘争』の著者です。傷つきやすく、一度壊れると回復が困難な表現の自由を守る運動は、権利のための不断の闘争です。『権利のための闘争』の序文には、「自ら虫けらになる者は、あとで踏みつけられても文句は言えない」というカントの厳しい言葉も紹介されています。

表現の自由が踏みつけられないため、みなさんとともに、絶え間なく権利のための闘争を続けていきましょう。また、声を上げ続けていきましょう。これまでも、今日この日も、そしてこれからも。ありがとうございました。


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