見出し画像

【第72回】信教の自由 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

1. 信教の自由の保障と限界

信教の自由は、内心にとどまる限り、他者の人権などを侵害することはあり得ませんから、信仰の自由としてその保障は絶対的なものと考えられます。

これに対して、布教活動をはじめとして、外部的行為については、他者の人権との調整が必要になります。思想・良心の自由と表現の自由の関係と同様です。

2. 加持祈祷事件

事件は、病人の求めに応じその平癒のため加持祈禱することを業としていた僧侶が、息子(A)が異常な言動をするようになったので平癒のため加持祈禱をしてほしいとの依頼を母親から受けたことに始まります。この僧侶は、約1週間にわたってAを自宅に連れてこさせて祈禱を行ったのですが、治癒しなかったので、これは大きな狸が憑いていて容易には落とせないので、いわゆる「線香護摩」を焚いて加持祈禱し、狸を追い出すよりほかに方法がないと考えました。

僧侶が「線香護摩」による加持祈禱を始め、Aが熱気のため暴れ出すと、近親者らにAを取り押さえさせたり、腰紐、タオル等で手足を縛らせたりして、嫌がるAを無理に燃え盛る護摩壇の近くに引き据えて線香の火に当たらせたり、背中を押さえつけて、手で殴るなどして、約3時間にわたり線香護摩を行ったそうです。

このためAは、全身に熱傷および皮下出血を負い、これによる2次性ショックならびに疲労等に基づく急性心臓麻痺により、その後死亡したというものです。

この僧侶は、傷害致死罪(刑法205条)に問われて起訴されたのですが、本件行為は宗教者としての正当業務行為(刑法35条)であり、違法性が阻却されると主張して最高裁まで争ったのですが、「信教の自由の保障の限界を逸脱した」「著しく反社会的なものである」として有罪としました(最大判昭38.5.15)。

仮に加持祈禱が宗教的信仰に基づいて行われたものであるとしても、他人の人権、この場合には生命という最も重要な権利を侵害することはできないという判断として理解することができます。

3. どのように判断するのか

加持祈祷事件は傷害致死事件という、生命を侵害しているというケースですから、信教の自由の限界としては比較的明確な場合ということができます。オウム真理教が大量殺人を目的としてサリンを生成していたことも同様です。

一般論としては、信教の自由といっても、刑法に抵触するような行為は認められないということができるでしょうし、信教の自由を理由に詐欺罪、恐喝罪などの成立を免れることはできなといえます。

ただし、詐欺罪などについては、対象とされるたとえばご本尊や壺が本物か、ニセモノかということについては、宗教上の教義に照らさなければ判断できない場合があるでしょうし、その判断を公権力が行うことが適切か、という問題が生じます。本物と信じている人がいるのに、それは偽物だと公権力が判断することは、信教の自由との間に緊張関係を生むことになるからです。

加持祈祷事件は昭和30年代の最高裁判決ですから、公共の福祉の内容も必ずしも明らかではなく、「信教の自由の保障の限界を逸脱した」「著しく反社会的なものである」としていますが、信教の自由の制約が公共の福祉による必要かつ合理的なものといえるかについてのより具体的な判断枠組みが明らかにされるのは、宗教法人オウム真理教解散命令事件(最判平8.1.30)においてでした。具体的には、①規制目的の合理性、②規制の必要性・適切性、③規制によって生じる支障の程度について、比較衡量にもとづく審査を行うことが示されています。

なお、宗教法人が解散されたとしても、法人格が失われることを意味し、その信仰を禁止するものではありませんから、信教の自由の侵害とはいえないと考えられています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?