憶録とは
憶録といった活動を始動する。
長い間、写真や動画の在り方について考えてきた。そもそも写真家やフォトグラファーは、カメラと言う機械を使って記録をする者で、「写真」も「フォトグラフィー」もその言葉自体に思考は伴っていない。
写真をやる上で、条件や必須の考え方なんてモノは存在しない(マナーなどはあるが)にも関わらず、私の苦手するSNSでは、自分で作った定義を武器として扱う様子が散見する。
フォトグラファーはAでなければならない。Aをしない人間は、写真家ではない。プロ失格だといった主張ととそれに対する反論が紛争のように飛んでいる。
私も言葉を再定義すること好きだ。それがアイデンティティーの確立になると何度も書いている。
しかし再定義とは、あくまで自分の主張であり、他人に無理やり当てはめてはいけない。
あなたのアンデンティティは誰かを襲うためにあるのか?
様々なやりとりに嫌気がさし、そんな思考と共にSNSから離れていた。
肩書もなく、流浪人のよう彷徨う私。
数々の思考の旅で、私がこだわりたいのは写真やフォトグラフィではなく、追憶だと気づく。
その言葉を知っているだろうか。
写真を振り返り浸る時間が、私の希望である。
あの感覚、あの時間が最も回復している気がする。
このnoteも、思い出や変わらないモノ、過去をテーマに何度も追憶してきた。
私がしたいのは追憶。そのために写真を撮り、映像を撮る。すなわち記憶を記録する。
追憶を目的に、記憶を記憶すると言う活動。
写真家でも、フォトグラファーでも、映像クリエイターでもなく、肩書は憶録家に設定した。
周りから呼ばれる肩書はなんだっていい。
私の1つの側面に触れ、呼びやすい形で判断していただければと思う。
自ら主張する肩書きは、01 PRODUCTIONの代表と、憶録家である。
今後の展望として、まずは自らの記憶を記録し、そして追憶をした過程を表現する。
その上で憶録の意義を社会に伝えたい。
具体的には、学術的な展開も考えており、写真心理学などと言うかつて見た記事に惹かれ、自分の過去を振り返る行為がもたらす、精神的な回復効果をデータに出したい。
1つ例に出すと、雨の日のリフレクションの写真を振り返った時、服が濡れて気持ち悪かった感覚や肌寒い思い出はあまり思い返せない。
そのリフレクションが撮れた喜び、当日の充実度ばかりが思い返されるのだ。
アニメのノスタルジーは、なぜ美しいのか?
現実から虫や暑さ、疲労など概念を消せばかなり近くのでは。ネガティブな感覚が存在しない世界だから美しいのではないか。
写真や映像、文章にはそれができる。今この瞬間、後世に残したいものだけを写し、綴れば良いのだ。
そうやって都合よくも、創作をしてきた我ら人類。そんな未来に優しい性質だからこそ、どんな時代でも創作は人の救いになってきた。
人間、生きていれば目を背けてはいけないほど残酷な現実に直面する。しかし、それは今だけで十分ではないか。
未来がに近づき、今になり現実に直面する。
それは回避しようがない事象。
経験し、過去となるのであればもういいだろう。自らを許してやってほしい。
過去だけは休ませて。自分に都合良く、背中をしてくれる存在であってほしいのだ。
まずは、憶録という行為・言葉を正式に作り上げ、大学などと協力し心理的な効果を研究したい。前向きな研究結果は、その先で私のプロジェクトの展開を後押ししてくれるだろう。
いくつか個展を開催し、認知を広げていきたい。
毎日の日記である憶録日記、世界をまとめる憶録輿図、恩返しのために映像作品SOUMATOUなどの活動を通し、憶録そのものの魅力も届けたい。
多くの思い出を残し、疲弊した時に追憶で救われる人々が増えることを祈って、私は動き続ける。
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