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報いについて。
育った中学からの下り坂。
地元の涼風と走る時間。
「何をしたら報われるのか?」
そんなことを考え始めた。
報われる、とは何なのか。
それは、続けた努力に対して成果が出ることだ。名声、金銭、出会い、感謝、評価など、様々な形がある。
だとすると、私は既に報われている。
映像や写真を始めた高校時代から、多くの報いを貰えているではないか。
そもそも報いは必要なのか。
報いは必要。対価が返ってこなければ、そもそも活動が難しい。
出費が発生する業務をこなす以上、金銭の獲得は必須である。数多もの選択肢の海でこの航路を選んだのは、やりがいを感じれるからだ。
それらがなければ続けるのは困難だろう。
報われる、の勘違い。
報われるという言葉を聞いて、人生のゴールのように捉えてしまう人が居るかもしれない。それはきっと勘違い。
そもそも報いを受けること=努力のリターンが名声や金銭や評価だとすると、意外に瞬間的なモノかもしれない。
みなの関心は時間と共に薄れ、報酬は1度きり、評価は常に更新され続ける。
もちろん取り組む内容にもよるだろうが、報いは線でなく点だ。マリオのスター状態が永遠に続いたり、ルフィがギア5で居続けることはない。
努力の先にあるものは、一時的な報酬。
報いのために全てを犠牲にする行為は、必ず後悔を生む。
努力の犠牲
かつて、犠今憧日といった四字熟語を創作した。過去の反省から自身の戒めに。
家族や大切な人との時間を犠牲にし、大きな成果に報われても、自信が悔恨の涙を流す未来がみえる。
辿り着いた場所が、自身の偶像やイデアルであった日には暫く立ち直れないだろう。
努力のための犠牲は、ほどほどにしなければならない。
生産性のない時間を過ごしている自覚があるのなら変換して良いだろう。しかし、大切なものを犠牲にして得た立場や、後悔に塗りたくられたアイデンティティを手にしても、そんな自分は誇れない。
手にすることはなくすことだった
大衆が欲しがる高級車にブランド、地位や名誉を手にした人間がこんなリリックを書くほどに。
今得ている報いは、案外大きなモノかもしれない。
報いの類語に、応報といった言葉があるが。
それは善悪の行いに応じて受ける報いである。
報いには裏表が存在する、努力を選んだ行為は、他者の悲しみや怒りを生むかもしれない。
努力への、過度な犠牲は誇れない。
それゆえに得た報いに、輝きは感じない。
今に幸せを感じること
「何をしたら報われるか?」という疑問の結論は、「常日頃から報われている」だった。
駆け出しの高校時代の映像も、友人からの感謝を受けていた。今と違うのは報われる頻度でしかない。
本格的に仕事を始め、他者のために動き、独り善がりな作品の提供が減ったので、報われる瞬間が増えた。ただそれだけの話。
多くの人と出会い感謝されたいので、私は努力を続ける。
その反面、友や家族、愛する人に会う時間も重要な生きがいだ。報われることだけが人生じゃない。
その程よいバランスを見つけていく行為が、最も心地よい生き方の模索かもしれない。
早朝の揺れるカーテンの影。
ランニング中に写る、水面の反射。
家族と共にする月一の食事。
大切な人との喫茶店巡り。
写真を送った後に貰える、ありがとう。
今の生活でも、幸せを感じる瞬間は沢山ある。これらが消えてしまうなら、地位も名誉も評価も要らない。
学生時代の友人と離れ、知名度と引き換えに孤独を感じるなら、成功なんて要らない。
世間よりも、網膜に写る人たちと生きる。
莫大で夢のような報いを求めることは辞めた。今に感謝し、目の前を大切に生きていく。
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