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いつからか、プレイヤーになった。

観客席で眺めているゲームも
それはそれでまぁまぁ楽しかった
でも自分がプレイヤー
そう感じ始めたら止まらなくなった
二度目はないLife

In my life / Salu

観客席で見ているときも悪くない。オーディエンスとして受け取る人生もそれはそれで充実していた。それ以上の経験を私は知らなかったから。

ただ、中学のサッカー県大会決勝。怪我をしてベンチで試合の行く末を見届ける中、同じサイドの選手を心から応援できなかったのだ。プレイヤーとして感じれるあの快感は唯一無二だ。それを味わってしまったらもう戻れない。自身がアシストをして歓声が上がる感覚、仲間とハイタッチをして称賛されるあの感覚を覚えてしまったらもう戻れない。

高3の定期戦で動画を作った日から、プレイヤーになろうと覚悟した。評論家気取りの人間に批評されようと、大きな責任が伴おうと、かつての友人が応援してくれなくとも、私は生きがいを優先する。一度きりの人生だ。発信をしていく。

クリロナのポスターを飾っていた少年が飾られる側となり、PUNPEEを最前で聴いていた青年が客演で歌い、好きな漫画を語っていた少年は自身の作品を語るようになった。時の流れは思考を変化させる。受け取る人生から、誰かに価値を渡せる人生にしたいと動くようになった。

プレイヤーになっても、オーディエンスにはなれる。いつだって情報社会の中で生きていれば、受け取ることは簡易である。

受け取ることと言えば、SNSは普段からあまり見ない。基本的にInstagramのストーリーズも投稿も発信側にいる。必要だと感じたら作品を見る。マーケティング、リファレンス集めに必要だと感じたらTIKTOKを分析する。

父にもSNSを見ないことを伝えたとき。「普段から見ていないと、時代に置いてかれるぞ」と指摘されたが、脳死で毎日縦スクロールするより、定期的に特性と傾向、流行りを分析する作業をしている自身が置いてかれるわけない。執着はしていなので、自身の生き方に不必要になったり、衰退してきたら簡単に切り捨てる。SNSは『支配されるな、支配しろ。』がモットーだ。

更にプレイヤーとしてのスキルの習得を第一に考えると、オーディエンスは効率が悪い。例えば、写真家であれば写真を撮るのが一番成長するし、動画クリエイターなら、動画を作るべきだ。

もちろん、オーディエンスの角度からしか見れない視点、知識や経験はあるが、プレイヤーなのにプレイよりオーディオが優先的になってしまったり、可処分時間を奪われ過ぎるのはよくない。

オーディオタイムを支配してこそ、それも包含して一流のプレイヤーだと考えている。

ただプレイするのも、この便利な時代は簡易なので目的はその先にある。

自身の発信の先で夢を叶える、私の考えと私の作品で。


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