第1回 ハーツとわたし (2007年3月)

 祝!ハーツ移転!毎月コラムを担当させていただくことになりましたウラニーノのボーカル山岸と申します。今回は第1回ということでテーマはズバリ「ハーツとわたし」。
 ぼくらはハーツには昔から大変お世話になってきましたが、このライブハウスにはよく言えばアットホームな、悪く言えばテキトーな空気が常に漂っております。ある時はチケットノルマがじゃんけんで決まりました。またある時は「出演検討中」と言ったはずが、ホームページに出演決定で載せられてしまい、出演を余儀なくされたこともありました。夜中に「大事な話がある」と電話が来て、慌てて行ってみたら麻雀の人数合わせだったこともあったなぁ。
 しかしこのライブハウス、時にバンドとは全く関係ないことまで親身になり、お世話してくれます。例えばウラニーノのベース、ピストン大橋(当時童貞)が初めて裏ビデオを見たのもハーツの事務所でした。顔面全体で「未知との遭遇」を表現したような彼の表情は忘れられません。
 この原稿の依頼が来た時点で締め切りは3日後、タイトルやテーマはおろか字数の指定もほぼなし…うん、テキトーだ。場所が移っても相変わらずなこの「愛すべきゆるさ」が少しうれしくて、思わずニヤけてしまうぼくでした。


(後記)
 長年大宮にあったハーツが、2007年4月、諸々の事情で西川口に移転し新たにオープンした。移転の事情は、ビルの老朽化とかオーナーと揉めたとか、さいたま新都心にライバル店VOGUE(現HEVEN'S ROCK)が進出してきたため撤退を余儀なくされたとか、都市伝説的にいろいろ語られているが真相はわからない。
 埼玉大学で結成したウラニーノが、本格的に活動するようになって初めて出演したライブハウスが大宮ハーツだった。当時の大宮ハーツにはカリスマブッキング今富氏が事務所に鎮座し、荒くれ者のスタッフたち(ぼくにはそう見えた)がその周りを固めていた。デモテープを握りしめて初めて大宮ハーツの門を叩いた時、カリスマ今富氏は不在で「今富の右玉袋」と言われていた腹心の岩田氏が対応してくれた。当時まだ19歳だったこの男、埼玉大学の田舎の大学生の我々から見たら相当イケていた。年下のくせに態度もデカかった。岩田氏に託したデモテープが今富氏の元に渡ったかは今となっては謎だが、これがきっかけでウラニーノは大宮ハーツに出演できることとなった。
 当時のハーツにはバンプもエルレも来ていた。そんな時代だった。我々は名だたるツアーバンドの前座としてハーツのステージに立つようになった。今富氏に呼ばれれば、いざ鎌倉の精神でいざ大宮に飛んでいったものである。今富氏のライブ後の精算は長いことで有名で、若手で精算の順番が最後の我々が事務所に呼ばれるのは、深夜から明け方のこともザラだった。
 そんな深夜の精算の時間に、このコラムに書いた裏ビデオ上映会は行われた。なぜかひざまずき切腹スタイルで、顔を真っ赤にしながら食い入るように画面を見ているピストン大橋(当時童貞)の隣で、今富氏が映像を解説しながら「ほれほれ、ピストンしとるぞ」と笑っていた。カオスな空間であった。
 とにかく今富氏はかっこよかった。カリスマだった。我々はまさに「今富チルドレン」だった。
 ハーツに出始めて1年ほどした頃に、当時のボーカルが急に脱退することになった(ぼくはボーカルではなかった)。急だったので1本決まっていたハーツのライブをキャンセルしようと電話したところ、今富さんは「プロならば、どんなことがあってもキャンセルはするな。ステージに立て」と言った。今ならジュリーに聞かせたい名言である。「どうすればいいでしょうか?」と泣きつく我々に今富氏の答えは実にシンプルであった。「誰かが歌え」。こうしてぼくが歌うことになり、今のウラニーノが誕生したのである。
 ぼくが歌ったその最初のハーツのライブに今富さんは来なかった。それから今富さんに会えなくなった。今富ロスに陥った我々は、いつか再び今富さんにライブを見てもらえた時に、「がんばっとるな」と言ってもらえるようにがんばった。
 西川口ハーツへの移転が決まり、地元バンドの代表として毎月のコラムを任せてもらえることになった。この第1回目のコラムを書いたのは、今富さんがハーツを去りぼくがボーカルになって4年後。今から12年前のことである。
 後にこのコラムの常連となる店長コータさん、ブッキングのハラハティー、ブッキングしあわせ等々といったメンツとも大宮時代からの仲である。気がつけば大宮時代はずいぶん昔のことになり、当時を知るバンドも少なくなった。「ハーツとわたし」、ずいぶん長い歴史になったものである。(2019.4.1)

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