見出し画像

フランツ・カフカ「断食芸人」をよむ

 カフカの「断食芸人」をご存知でしょうか。カフカの他の作品、「城」、「審判」、「変身」に比べると知名度は落ちると思います。ただ短編なので、すぐに読めるのでおすすめです。Kindleでは青空文庫の作品が無料で読めるので、そちらであればスマホとかで簡単に読めます。

 断食芸人というのは、ものを食べないことを芸として見世物にする芸人です。興行が行われ、ヨーロッパのまちまちを回りながら、最大40日間ものを食べない芸人を、人々が見に来ます。そして断食明けにはもようしが行われます。もちろん芸人はやせ細りあばらが浮き出ています。

 断食芸人もはじめは見世物として大いに人気を博します。しかし、時代が変化して誰も省みなくなります。サーカスの真ん中から、外の動物小屋の中に移動させられて、小さな檻の中で断食日数も数えるヒトもいなくなります。

 断食芸人の最後の方で、なぜものを食べないのかということを語る場面があります。どうして食べなかったかといえば、うまいと思う食べ物を見つけることができなかったからだ、と語ります。これをカフカ自身のことと捉えて、カフカ自身の生きづらさを表現していると、とらえることもできると思います。

 自分に合うものがなくて、いろいろ試してみるけれど、どれも不味くて食べられたものではありません。食べ物というよりも世間で生きていくそのものが口に合わない感覚があって、カフカの経験を表現していると考えることはできます。

 断食芸人は、たしかにものを食べません。しかし、断食芸人はものを食べないだけではありません。他の楽しみとなりそうなものをしてるわけでもありません。ただ檻の中で藁の上に座ってるだけなのです。多分断食芸人は世界のすべてのものを拒否しているのです。

 すべてのものを拒否するとは、好きなものがこの世にないという状態です。好きなものを摂取することは善いことです。逆に状態の悪くなるものを摂取することは悪いことです。つまり世界のすべてのものが悪いとなる世界です。決して満足することのない世界ということです。

 否定とは論理が作る言葉の関係です。自然界自身はあるようにあるのであって否定を持ちません。すきや嫌いは世界に分断線を引くことです。世界を構造化すると言ってもいいです。あるいは主体を確立させると言ってもいいです。断食芸人はすべてのものを拒否するとして、主体化をはかっているのです。

 でもその主体化は苦痛しか生みません。生命の弱体化とも言えます。最後の方で若い豹が檻に入れられ、生命を発散させることによって話は終わるのも、そのためです。世界は善いことで満ちているとするか、それとも拒否によって生きるのかは、私達に委ねられています。

 窓の外を見れば、青空が広がっています。いい天気です。その中を雲がゆっくりと流れています。温かいというのはそれだけで善だと感じます。

 

 


 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?