過去タクシー     2021/1/9

大学時代の友人から
結婚式を挙げるとの連絡があり
その町へ出かけたのは
年の暮れのことだった

そんな年末に挙式するかな
少しひっかかるものはあった
しかもその町は日本のほぼ最北端にあった
そんなところにわざわざ真冬に人を呼ぶかな

気になることはいろいろあったが
それでも私は行くことにした
移動距離はゆうに千キロ以上
式の前日、始発電車に乗りこんだ

着いた頃にはもう夜だった
一日がすっぽり抜けたような気がした
朝、エアポケットに入りこみ、やっと抜けたと思ったら
そこは最果て 星の町 みたいな

駅まで友人が迎えにきてくれるという約束だったが
友人はなかなか来なかった
携帯電話もつながらない
きっと式の前日で忙しいのだろう

無理をさせては申しわけないと
駅前に唯一いたタクシーに乗ろうとしたその瞬間
ごめんごめんと闇の中から人懐っこい笑顔が現れた
十年ぶりの再会だった

そう、あれからもう十年になる
当時、私はピアニスト志望の音大生だった
典型的な自信過剰の馬鹿たれで
自分を天才だと本気で思いこんでいた

今でもあの日の夢を見る
数百人が見守る中で私はピアノを弾いている
我ながら完璧な演奏
指が機械のように正確に鍵盤をとらえる

が、崩れ去るのは一瞬だった
突然、歯車が狂いだしミスを連発
リカバリーしきれず指が止まった
だらりと腕を下げ、呆然と鍵盤を見つめた

まさに悪夢
その日限りでピアノをやめた
傲慢だった自分が許せなかった
音大もやめ、音楽とは無縁な仕事に就いた

友人も同じくピアニストだったが
彼は努力型で地道に腕を上げ、見事プロの道に進んだ
が、おととし生まれ故郷のここに帰っている
何があったかは聞いていない

彼は私を家に招いて歓迎してくれた
家には奥さんもいた(ふたりはすでに入籍していた)
結婚と再会を祝して缶ビールで乾杯
後で宿まで送るからと彼はジュースで

自然に音楽の話になって
聞くと彼は東京で少しだけ心を病んだのだと言う
それでピアノをやめて帰郷したが
彼女の支えを得て、またやり直すのだそうだ

そんな話の後だった
彼が突然、ピアノを弾いてくれないかと言いだした
最初は軽く断った
とてもそんな気にはなれないと

彼は引かなかった
おまえには才能がある、いや、素質がある
もう一度ピアノをやってほしい、いや、やるべきだ
妙にしつこく食い下がる

それでも適当に断っていたが
結婚祝いだと思ってどうかお願いします
奥さんにまで頭を下げられては断りきれず
とうとう承諾してしまった

十年ぶりにピアノに向かう
悪夢がよみがえる
鍵盤の白と黒がまるで光と闇のようだ
私はあえてあの日と同じ曲を弾いた

ショパン 幻想即興曲嬰ハ短調

私の一番好きな曲
そして一番嫌いな曲
そんな私情とは異次元に
孤高にして美なる曲

これを弾くと
いつも星空が思い浮かぶ
無数の星が脳裏に光り、音になってあふれ出す
目を閉じ、星をひとつひとつなぞるように弾いた

柔らかくて優しい音がした
私にもこんな音が出せたのだ
おごりのない素直な音が…
我知らず涙があふれた

最後の音を弾き終え、目を開けると
タクシーの後部座席だった
友人も奥さんもいない、ピアノもない
タクシーは闇の中を走っていく

いったいどういうことだ
私はタクシーには乗らなかったはずだ
友人に電話する
混線していてつながらない

「お客さん、どちらからですか」
運転手が話しかけてきた
「東京です。明日、友人の結婚式でして」
運転手が怪訝そうにした

「え、明日ですか、それはちと解せませんなあ
 だって明日は冬至ですよ
 この辺りでは冬至は極夜と言いましてね
 白夜の逆でまる一日、夜が明けんくなるんです

 普通は北極圏でしか起きんのですが
 この辺はそれだけ北にあるってことですかね
 十年に一回くらいですが、冬至に極夜が起きるんです
 明日はまさにその日なんですわ

 ですので、明日お友達が結婚式をなさるってのは
 やっぱり解せませんなあ
 ここらの人はみんな休みますからね
 式場もやっとらんと思いますよ」

何を言っているんだ、この人は
また電話をかける
圏外だった
しかも発信履歴から友人の名前が消えている

「極夜の日には、過去に戻れると言われとるんです
 一日昼がなくなる分、過去の一日で補填できる、
 ということなんですかね
 まあ、昔の人の幻想でしょうが」

幻想? そうか、だんだん分かってきた
星は過去からの光
私はそれを弾いて、過去への扉を開けてしまったのだ
くしくも幻想即興曲という曲で

いったいいつの過去に行くのだろう
あの日だろうか、だとしたら正直こわい
でも今ならあの日をやり直せそうな気がする
そうしたら少しは自分を許せるかもしれない

思えばすべて彼の仕業だ
ここへ来たのも、ピアノを弾いたのも
人懐っこい笑顔が浮かぶ
あいつ、余計なことを… また涙があふれた

運転手がアクセルを踏みこんだ
空が傾く
星が鳴る
あの曲だ

タクシーが ゆっくり 浮いた…

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