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雪がふっている。 ひろを眠らせ、ひろの屋根に雪ふりつむ。 声にださず、つぶやく。きっと太郎も次郎も眠っている。ふふ、とかすかに微笑んで、高木ひろは眠りのとばりに包まれていく。 しんしんと雪がふる。しんしん……と。 寝返りをうち、眠りに落ちる。 揺らいだ。 高木ひろは眼を見開き、天井を見つめた。 日付は変わったが夜明けはまだ遠い。夜の中を車が走っていく。タイヤチェーンが道路の雪を蹴散らしていく。 ひろの脳を深く睡眠に落としこみ、身体を起こす。 つけっぱなし
*龍になりて妃をもとむ 「美しい香音さまの言うとおり、丁未にアラートをだすぞ」 健人のアラート発令より一瞬早くアラートが鳴りはじめた。 ヒューイヒューイヒューイ、一秒休止、再びヒューイが三回、停止するまでエンドレス。 丁未にアラートが響く。現時点での丁未のボスは桜花だ。 「久米、アラート停止」 隊員は上位階級は階級で呼び、下位の隊員は姓を呼び捨てにするようだ。 ハッチを開けて、辛亥から出ていく桜花の尻と足だけが見える。 「ステーションからのアラートだ。健人、クマ
*辛亥 二〇三一年十二月二八日、わたしはシャトルシップ・クマノで宇宙ステーション丁未に向かった。座席は四名分。乗員は二人。 そしてわたしは三十一歳になった。数え三十二前厄、三年間の女の大厄のはじまりだ。 迷信は人の情念の集合体のようで、用心するにこしたことはないと思っている。 わたしはコックピットでパイロットの隣に座らせてもらった。 ドッキング機構は宇宙ステーション丁未にある。 クマノのパイロットは栗栖健人、わたしより頭ひとつと半分ほど背丈のある細身の筋肉マ
*ルビー・イーグル 火星は月へ行くのとは訳が違う。 月航路は宇宙ステーションから随時シャトルが往復している。地球からも飛んでいく。 月面には民間の観光ホテルがある。 もし水がない、食糧がない、酸素が足りないとなったら、基地同士融通しあうし、不足物資が軽量なら、地球から翌日か翌々日には届く。 本格的な月への入植計画がないのに、いきなり火星への入植が始まったのは、二〇二一年に日本の無人探査船が未発見のメタルを持ち帰ったからだ。 未来永劫、エネルギーについて悩む
*リハビリセンター わたしは、宇宙へ羽ばたきたいとか、宇宙で仕事をしたいとか、月基地で働きたいとか、火星入植に応募したいとか、一ミリも、なんなら一ナノメートルだって思ったことがない。 しかし、一年間の宇宙空間勤務訓練の辞令は下った。 残念ながら、これがわたしの初海外渡航でもある。 わたしがフロリダにあるとばかり思っていた、知らない人はいない、ヒューストンが、ほんとうはテキサスにあるのだと知った。 国内温泉旅行に誘われればほいほい同行してきたが、海外はなかなか
*シバンムシの足音 南舟記念博物館の収蔵庫は本館の裏にあり、連絡道は地下にある。地上部分に出入口はない。 木造校倉造りだが、収蔵庫は超合金の完全密封で水に浮く。温度湿度管理は勿論のこと、火、虫、水、暴風、地震への防御は完璧だ。 古地図によると南舟記念博物館は字に湫の文字がある地域であり、伊勢湾台風の水害も考慮し設計された建物だ。 収蔵庫入室時の身体洗浄は徹底していて面倒だが、この面倒が収蔵作品の安全を確保している。 「儘心堂については、天野さんの判断はギリギリセ
*昇鯉(しょうり) わたしは平成十二年十二月二八日、二〇〇〇年、ミレニアムの生まれだ。誕生をあと三日だけ待てば、二十一世紀の元旦が誕生日だったのにと折々に思う。 ちなみに干支は庚辰(かのえたつ・こうしん)、今年三十歳になる。 あくまでわたしなりにだが、勉強して努力して夢みた南舟記念博物館に学芸員の職を得た。 黙々と裏方を務めるのは性に合っていて、わたしはわたしを再確認できた。 高校の三年間、芸大受験のための予備校へ通った。 いまは学校へ通う、という概念が崩れ
*古本屋「儘心(じんしん)堂」 名古屋市中区大須にある古本屋、「儘心堂」は、第二次世界大戦後間もなく建てられた長屋の生き残りなので、「うなぎの寝床」といわれる奥へ深い縦長の家屋だ。 儘心堂の外観は震度一でも崩れそうな古家だ。だが見た目より頑丈なのだろう。 儘心堂周辺の家屋や店舗も意識的に古さを残している。新築や改築でも「古い家」をテーマにしているような造りになっている。なので儘心堂の古さは目立っていない。 儘心堂の店主はまぎれもない老人だ。見たところ、九十歳近いの
ナツミはコホンと咳をして唇を濡らした。かすかに香ったコーヒーの香りが、ふっと消える。 テーブルに頬杖をついて、緊張感皆無の所長が、嫌味か皮肉かどっちを聞きたい? とばかりに口元をにやりとゆがめた。ぬるそうなコーヒーを一口すする。 「所長、昨日から鼻がむずむずしています。これからエアクリーナーをチェックします」 「ちょっと待て、逃げるなナツミ。きみは今日の客の担当だろ。どうだ、きみの鼻までコーヒーのにおいが届いているかな。におわないだろ? きみも詰めが甘いねぇ」 空気は正