甘やかされた読者

 

 大衆とは永遠の未成年である、と言ったのはベリンスキーだったか、いつでも時代というのはそのようにも回っているのだと思う。

 今から言う事はもうみんなうっすらわかっている事だろうし、自分も何度も書いているし、もう言わなくてもいいという気もしているが、ストレス発散の為に書こうと思います。

 さて、タイトルは「甘やかされた読者」としたが、これはそのままの意味である。現在の読者・視聴者・観客というのはあまりにも甘やかされており、幼児化して、自分の口に合うものしか認めようとはしない。そして自分の口に合わなければそれは彼らにとって「面白くない・つまらない」ものであり、どんな古典であろうが偉大と言われる作品であろうが、彼らにとっては「わかりにくくつまらない」となる。

 彼らは物事を噛み砕いて理解する力を持たないし、そうしたものを一切養ってこなかった。だから、少しでも固い食物が供給されるとそれは彼らにとっては例外なく「まずいもの」なわけである。自分の顎の力が一切なくなっているという事には気が付かない、また自分の舌とか顎とかもまた、修練によって養っていく事ができるというのも知らないし、知りたくもない。そこで彼らは常にあらゆる毒性を取り除かれた乳児用の食物しか受け付けない。

 このような彼らが、自分達を正当化する為の理論は「人それぞれ」「誰にも好き嫌いはある」というもので、例え赤ん坊が母親の乳しか吸わなくても、それもまた「個性」であり「権利」であると主張する。理性も知性も養ってこず、ただ自分達に都合の良いものだけを良いとする人々にあらゆる業界は迎合し、彼らに餌をやる母鳥のごときものとなった。こうして彼らはいつまでも独立できず、自分の目でものを見る事ができない。

 仮に誰かが自分の目でものを見て、意見を発しようとしたら「そういう主観的な答えはいらない」と彼らは言う。彼らにとっては、幼児化した自分達の数だけが絶対的な客観性であるから、それだけが意味を持つとされている。自分の意見を持つ誰かは許されていない。みんなで淡い夢を見ていれば幸福になれるという世界なわけだ。

 こうした趨勢はあらゆるコンテンツに及んでいる。バラエティ番組やユーチューバーの動画はあらゆる情報をすべてテロップで説明する。通俗映画は、感動できる場面には「さあ感動してください」とばかりに感動的な音楽を流す。頭を一切使う必要のないものが人気を取る。それは、数によって担保され、儲かるので、「経済的価値」とやらでまた何重にも正当化される。こうして人々は自分達の論理の中に閉じこもり、いつまで甘い世界の中に浸ろうとする。

 作品を理解する、というのも一種の訓練とか修練が必要なわけで、そうでなければ批評というものには大した価値はないだろう。簡単な作品から始めて徐々に難しい作品に迫っていく。そこにはある種の道があるのだが、こう言うと、現在では笑われてしまう。今はあらゆるものを「フラット」に見て、趣味的に味わったり吐き出したりするのが本流とされているからだ。

 作品はすべて、鑑賞者の価値観を揺さぶり、考えさせるものではなく、ジェットコースターのように、鑑賞者を一定の位置に据えておきながら、ただ色々な快楽を味わさせてくれる道具でありさえすればいいわけだ。鑑賞者は考えなくてよい。ただ見て、楽しめば良い。

 カントは、啓蒙という形で当時の人々に、歩行器を脱して自分の足で歩む大切さ、理性を自立させる必要について語ったが、今も何も変わっていない。何一つ変わっていない。むしろ退行しているぐらいかもしれない。

 物語作品においてはドラマが消え、キャラクターも消え、純粋な書き割りのごときものになっていく。物語を作るのに必要な葛藤というものを完全に消去する方向に向かっているので、作品の中の人物は最初から答えに辿り着いている。最初から辿り着いた答えや快楽を繰り返しなぞる事、それ以外に意味も価値も感じられない。そうして、何か意味のあるものを作り出そうとする人はひどく苦しむ事になる。葛藤のない世界において葛藤を作り出すというのはいかなる事なのか、まだ誰にもはっきりしていないからだ。

 世界はこれほどコンテンツが溢れており、ドラマや物語のようなものは無限に近いほど溢れている。それというのは、人々に提供するドラッグのような作品群を作るのであれば自分でもできるという人が多数いるからだが、本当のドラマを作ろうとする人は非常に長く苦しい道を一人で歩まねばならない。ところが、この人物を人は「プロになりたくてなれなかった奴」と嘲笑うだろう。

 彼らは反省というものを持たない。彼らは自分達を肯定してくれるものにしか興味がない。たとえ彼らが崖の方向に突っ走っている最中でも、彼らに警告してはならない。「そっちは崖だから危ないですよ」と忠告すれば「俺に批判するとは何事か」とひどい剣幕で怒られる。だから彼らはおだてなければならない。「いい走りですね」「そっちの方向で合ってますよ」 こう言うと彼らはニンマリして、おべっか使いに多少の小遣い銭をくれるのである。

 しかし、こんな風に書いても無駄だというのは、自分もよくわかっている。こんな事は散々書かれてきた事である。散々言われてきた事である。この手の警句や批判が歴史上、どんな意味をもたらしたか。過去、どんな効果を与えたか。…何も変わりはしなかった。この先の未来、このまま行くとまずいと一部のインテリが言ったところで歴史はビタ一文変わらず、そのまま走っていったのを僕達は確認できるだろう。だから、まあこんな事を言っても無駄だというのは自分もよく承知している。

 ただ、自分はそういう人達とは距離を置きたいと思っている。彼らは幼児化しているし、考えず、ただ自分の感情をそのまま肯定される事を願っている。「ありのままの自分」というやつだ。「ありのままの自分でいい」と通俗曲は歌い、それに伴うように、自分を鍛え、養う人はいなくなった。そうして、「ありのままの自分」ではいつまでもいられないという事が判明してくれると、彼らはそれを妨げているものを探しにかかった。つまり、誰かが自分に対して快楽や欲望充足を妨げているという物語である。

 考え、苦しみ、成長する事を拒否した一群の人々は、時間が経って、どうやらいつまでも幼児ではいられないと無意識的に感づいてきたが、かといって今更自分の足で立ち上がる力もないので、幼児のままでいさせる状況を妨げているものが何なのか、それがあるに違いないと信じてそういう物語に移っているのが現状なのだろう。この物語に必要なのは、「敵」である。

 現在というのはこういう状況なのだろう。人々は、これまで祀り上げていたタレントを急に貶めてみたりしているが、それをしている人々の方もその目に合わないとは限らない。だが人々は多数派であるから、彼らを裁くものは、人間の中にはない。彼らを裁くものはあえていうなら「天」「神」「歴史」といったものになるだろう。

 世の中はますますこうした人達によって生み出され、こうした人達に迎合していくものとなっている。メディアでほんの少し取り上げられたものは、天をも突き破るほどの価値を付与されるが、それを取り上げていく人々の価値観は変わらない。変わらないというよりますます幼児化しており、だから、表面的には新しいものや素晴らしいものが次々入れ替わっているように見えるが、それらはすべて人々の価値観に沿った乳児食のごときものにすぎない。

 今はもう末期段階なので、食事を取るのすら面倒だから、ドラッグでいい、これほどハイになって、幸せになれるものは他にはないといった、そんな状況ですらある。人々は麻酔され、どろんとした目つきで宙を見上げる目を「あれこそ幸福の表情だ!」と叫びだすだろう。そういう時が来ている。その時は誰しもがドラッグをやって、互いに手をつなぎ合い(「絆」の重要性も散々宣伝された)、幸福で痴呆なグループを作り出すだろう。

 現在はこのような状態だろうが、繰り返し言うと自分はこれを言って何かが変わるとは思っていない。ただあまりにもひどい状態なのでストレス発散で書いたというに過ぎない。自分としてはせめて「愚痴」を言う自由ぐらいは残してもらいたいと思っている。だが、愚痴を言う自由すらももうすぐなくなるだろう、とも感じている。そうなれば完全に幸福な時代がやってくる。そういう時代がやってくれば、人々はこの僕の意見のような不快で意味のないものは目にする可能性すらなくなるだろうから、その時には黄金時代になるだろう。

 そう、人々にとって黄金時代はすぐそこである。が、人はいつまでも満足する事を知らないので、愚痴を言う人間が消えたら消えたで、そうなったら内輪同士で「『奉仕』の度合いが足りない」などと言ってお互いに殺し合いを始めるだろう。自らで足りるという平穏のない人にはどこまで言っても足りる事はなく、したがって黄金時代はいつまでもどこにもやってくる事はないのだろう。


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