ミシェル・ウエルベック「闘争領域の拡大」 感想

 ウエルベックのデビュー作「闘争領域の拡大」を読みました。面白かった。いや、超面白かったです。
 
 ウエルベックに関しては、もうある程度作品に触れていたので、彼の戦略とか、方法論はだいたいわかっているという風に思っていました。今回、デビュー作を読んで、こちらのイメージを裏切るような所はそれほどなく、予想通りと言えば言えたわけですが、デビュー作だけあって、作者の未熟なもの、後の成熟した作品では切り捨てられた要素も残存しており、興味深かったです。これに関しては後述します。
 
 「闘争領域の拡大」というこの作品は、作品の筋はほとんどないような感じです。主人公の「僕」は平凡な、中の上くらいのサラリーマンですが、それが静かに病んでいく様子が書かれています。それが時々、非常にコミカルというか、辛辣で風刺的で、思わず噴き出したくなるような筆致で書かれています。
 
 わかりやすいところでは「ブリジット・バルドー」という女優と同じ名前のブサイクな女の子の話です。主人公はこの女の子に多少の同情を交えつつも、彼女が、性的闘争の世界では完全に敗者である事をはっきり書いています。現代社会では「ブサイク」は、性における承認闘争においては残酷な「負け組」です。これを個人的な侮蔑として書けば不愉快でしかない(書く意味もない)ですが、それが、現代の冷厳な社会の象徴として描いている所に作者のシニカルな視点が伺えます。
 
 ウエルベックの主人公はこんな感じで、世界に対するシニカルな視線を振りまきつつ、傍観者としての態度を取っていきますが、その態度が狂気によって崩れ去るまでを描いていきます。とはいえ、このあたりはデビュー作なのでまだはっきりした形を取っておらず、後の作品のデッサンと言えそうです。
 
 私の観点から、小説技法として、興味深い点について書いておきます。それは一人称「僕」の使い方です。
 
 例えば村上春樹の「僕」は、消費社会の緩やかな、なめらかな心地よさや流れと同一になるように配慮された主体です。そうした主体が世界に対して違和感を感じながらも結局はそこに融和される様が彼らしい文体で描かれていきます。村上春樹の特徴はこの「僕」の世界への融和が、違和感でも、主体の消失でもなく救いとして描かれている所に特徴があります。しかし同時にそこに限界もあると思います。そこでは、主体の抵抗が消失していっているのに、それを心から肯定している作家の視座があるからです。このような視座が古典になって後に残るという事は、私にはありえないと思われます。
 
 「闘争領域の拡大」の「僕」も、私は思ったよりも村上春樹の「僕」と近いという印象を受けました。というのは出発点はどちらも消費社会、資本主義の中でそれなりに充足しつつも違和感を感じている主体だからです。しかしそこからの発展具合が違ったようです。より深刻に考えれば、ここには村上とウエルベックの教養の差が現れています。これは重大な差異と見ます。
 
 ウエルベックの教養、また彼の真摯さをはっきり感じたのは作品のラスト近い部分です。ここで、珍しくウエルベックは生真面目な顔を見せています。ウエルベックはシニカルなニヒリストであって、自身の真面目さは見せたがらないタイプです。ですが、このデビュー作ではついうっかり、真摯な教養人としての資質が覗いてしまったように感じます。
 
 その箇所とは、モーパッサンの自殺について心理学者と議論する場面です。私はここは作者の本音と見ました。モーパッサンは近代の優れた作家で、彼は気が狂いました。心理学者は彼が狂ったのは梅毒のせいだったと主張します。これは事実ですので、まっとうな主張です。ですが、「僕」は次のように言い放ちます。
 
 「違う。モーパッサンが狂ったのは、物質と無と死を痛感していたからだーーそして他に痛感できるものがなかったからだ。そうした点でモーパッサンは現代人によく似ていて、彼は彼個人と残りの世界を完全に区別していた。そういう形でしか、現在、我々は世界について考えられない。(中略)いかなる文明も、いかなる治世も、民のあいだに、これほどの苦渋を育てあげたためしはない。この点において、我々は前代未聞の時を生きている。現代人の精神状態を一語で言い表すとしたら、僕は間違いなく苦渋という語を選ぶでしょうね」
 
 こうした言葉は本格的な教養人の言葉だと感じます。冷たいニヒリストたるウエルベックも教養の泉から活力を(世界に対する抵抗力を)得てきたのでしょう。村上春樹は一方で、フォークナーを読んでも、ヴォネガットを読んでも、思想的な面からはほとんど影響を受ける事はできませんでした。

 彼は自身の奥底にあるものを自意識化し、対象化する事ができずに、古典作家を技法的にのみ解消して満足してしまいました。ここには大きな違いがあると思います。しかし、時代と共に流れていっている者には、その時代の底にあるものを客観視するよりも、それと融合し、その心地よさを描く作家の方が気持ちよく感じるでしょう。自己自身の深い部分を対象化できない作家が多勢に受け入れられるというのは、そういうメカニズムがあるように思います。ただ、全ては流れていきます。
 
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 話を戻します。ウエルベックの「僕」の使い方に関してです。そこには二重性があるという話をしました。これは、社会生活に順応している「僕」と、同時にそれを蔑視している「僕」の二重性です。
 
 性がテーマなので、その点で象徴させると比較的わかりやすい。「僕」は人間嫌いですし、女性も人間の一人なので、好きになれないのですが、セックスは必要だから「女」は必要である。「僕」には「女」は必要だが「人間」は必要ない、という所がはっきり書かれています。
 
 例えば、最初の、車を置き忘れた描写なんかも、現代人にはどこか心当たりがあるんじゃないでしょうか。主人公は車をどこかに置き忘れてしまうのですが、職場でそう言うと異端視されるのが目に見えているので「車を盗難された」と嘘をつく。こうした、日常生活において異常と見られないために小さな嘘をつくのは、現代に生活する我々誰もが経験があるでしょう。
 
 もう少し、この面を掘り下げて考えましょう。主人公の「僕」は中の上の、平凡なサラリーマンです。そこでうまくやっていく方法も知っています。その為の小さな嘘をつく事も、適当に充足していく事も知っています。しかし同時に、その全てが虚偽である事、嘘であり、自分のしている事は芝居だというのも知っている。だから、この芝居に疲れて、その振る舞いが止んだ時、彼は静かに狂気に落ち込んでいく。
 
 日常生活はとどのつまり芝居です。どのように振る舞うかという事が、その人間が実際にどんな人間かよりも遥かに重要です。現代社会では芝居の重要性は増しています。きちんと振る舞う事のできない人間は異常の烙印を押されます。そこで、人は自分が異常と思われないように懸命に自分を偽りますが、この偽りに疲れても休む所はどこにもありません。あるとすれば精神病院でしょうか。
 
 最近、自殺者が出たという事で、あるリアリティ番組が問題になりました。リアリティ番組とか、ユーチューバーとか、タレントが私生活を切り売りするといった事は、今書いた「偽としての生活」の極限、極北であるように感じます。
 
 こうした人達、「タレント」という言葉に一括しますが、彼らは自分が何であるかという定義を自分でくだす事ができません。自分が何であるという定義を下すのは視聴者であって、彼らは空虚な器として、それを演じます。その中間に位置するのがプロデューサーとかクリエイターとか呼ばれる人達です。タレントは、人々の望むような振る舞いをして、それを自分だと信じ込むように強制されます。そうして振る舞った自分を視聴者は見て、批判したり称賛したりします。実際には視聴者が生み出した幻影としての存在ですが、その幻影を振る舞い続ける事を強制され、決して己自身に到達できないのが、タレントというものです。
 
 今言ったのはタレントという象徴的な存在についてですが、普通に生きている人も職場や、他者との関係の中ではある演技をする事が要請されます。そうしてその演技に脱落すると心理学者という受け皿が用意されていますが、心理学者とは、心理に通暁している人間ではありません。心理学者が心理を知る必要は全然ない。必要なのは、必要とされる芝居をなんとか継続させる事です。早い話、患者が病んでいるかどうかはどうでもいいのです。病んでいたとしても、病んでいない芝居ができていれば、彼は病んでいないのです。

 社会生活上はそうなっており、それ以上の事は他人にとってはどうでもいいのです。現代人が週末、家で落ち込んで自殺を考えていても、週明けには職場に出て明るい挨拶をすれば彼は「明るい奴」となります。彼が自殺すれば、人は「あんな明るくていい奴だったのに」と言います。しかし、みんな彼の事などすぐ忘れます。
 
 ※
 
 ニヒリズムによって世界を否認する主人公は静かに病んでいきます。これは主人公のパーソナリティーからすれば必然的な結末と言えるでしょう。
 
 ちょっと、面白いと思った所をあげます。主人公の上司でかっこいい「課長」がいます。この上司は「人材管理のプロ」と感じさせる優秀な男です。ニヒリストの「僕」も素直に彼を「かっこいい」と思います。しかし、この本を読み切った人は、主人公は本当の意味ではこの上司を全然尊敬していない事に気づかれるでしょう。そうした事は例えば次のような描写
 
 「ホットドリンクの自動販売機そばで血の通った会話だ。」
 
 という一行にも現れています。ここで上司は、部下の私生活での動揺に対して「人材管理のプロ」らしい温かい、現実味のある言葉をかけるのですが、「ホットドリンクの自動販売機そばで」とわざわざ書く事が、主人公が上司を、そして上司をかっこいいと思う自分をもどこか突き放して見ていると証明してるように思います。この上司は非常に有能で、かっこいい男ですが、それはある器の中の有能さに過ぎない。主人公がうんざりしているのはこの器全体なので、その中で有能か無能かはそれほど重要ではないのです。
 
 作中には、不細工であったり、階級が下であったりして、社会的闘争において勝てなかったり、どうしようもない人間も出てきます。またその反対に、上記のような優秀な人物も出てきます。しかし、それら全体は主人公には一つの塊に見えている。この視点が、現在では非常に重要であると思います。またこの視点を獲得した人間は、現在では狂気に近い孤独に置かれる事も事実であると思います。

 現代の社会では自己啓発本などにより、この優秀な上司のようになる事が素晴らしい目標とされていますが、主人公の「僕」はそんな事は眼中にありません。彼はより「先」、あるいは「外」を目指すからこそ、優秀な人間にもなれただろうに、静かに狂気に陥っていくのです。悲劇は過小ではなく、過剰から起こると小林秀雄が言っていましたが、主人公の「僕」は悲劇の芽を持っています。これを常識で薄めて、解決できるとするのは嘘だと私は考えます。
 
 ※
 
 後はそれほど言いたい所はないのですが、後のウエルベックにはそれほど見られない所もあって、個人的には興味深かったです。
 
 主人公の「僕」が鬱病に陥った時、それを受け止めるような役割として女性心理学者が出てくるのですが、ウエルベックの作品にしては女性に実在感がありました。ちょっと、ドストエフスキー「地下室の手記」のリーザを思わせました。主人公の病んだ自意識を支えるのは、母性的な能力のある女性、という構図です。
 
 ただ、この女性心理学者も、結局は「最近セックスをしていないから病になる」という、いわば現代的な価値観に収斂されていきますので、やはり現代人の一人として、主人公の自意識を本格的に受け止める存在とはなりえない。あるいは、この点はウエルベックはそれ以上、突っ込まなかったとも思います。ウエルベックは病んだ自意識の物語、その語りの技術を磨いていく方向に歩いていき、その為に、「他者」の存在の有り様を深めていく方向には行かなかった気がします。あるいはそれは私の間違いで、現在にはそんな方向を深めていくのは不可能なのかもしれません。宗教も、民衆も存在せず、資本主義システムだけが覇権を握っている世界では病んだ自意識を守り続ける事だけが、作家にできる唯一の仕事なのかもしれません。
 
 少し触れておきたいのは、この女性心理学者は、「少し下の階級出身」で「ターバン帽」だという事です。要するに、この人物はフランス社会の中枢ではない集団の一人だと暗示されています。
 
 私はこのあたりを読んで、映画監督のミヒャエル・ハネケを思い出しました。ハネケもウエルベックもニヒリストで、西欧人、白人、先進国のブルジョアの俗物根性に心底うんざりしているタイプです。ですがハネケもウエルベックもそのど真ん中の人達ですので、必然的に表現は自虐的・マゾヒズム的になっていきます。
 
 ハネケの「ハッピーエンド」で、ブルジョアの白人が、綺麗な海沿いのレストランで会食している所に、黒人の集団がぞろぞろ入ってくる場面があります。ハネケは露悪的に、そのレストランは真っ白な塗装のものを選んでいます。そこに底辺(らしい)の黒人グループが入ってきます。そこでハネケは人種問題を取り扱いたいというより、むしろ、彼の自虐的本能を満足させる為に他者としての集団(黒人達)を利用しているのだと思います。
 
 ウエルベックも大体同じではないかと思います。ブルジョアの俗物性、偽物性にうんざりしたので、その反動として求めるものが、そうした人達とは違う集団性だった、と。最も、この後、ウエルベックはそういうコースを行かず、違う文化圏のグループを好意的に描く事はしませんでした。
 
 いずれにしろ、他者としての集団は、ウエルベックにとっては衰弱した欧米的なものの反動として見えていたと思います。古代ローマの歴史家タキトゥスは「ゲルマーニア」という歴史書を書きました。衰弱するローマと、それをやがて滅ぼす事になるゲルマン民族の姿が、タキトゥスには自分達の運命そのもののように見えたでしょう。ウエルベックも、衰弱する文化の中の優れた作家です。彼が自分達の衰弱の反動として他者としての集団に目を向ける事、それが希望であるか絶望であるかはこれから決まっていく事でしょうが、少なくとも衰弱した世界の中で、ウエルベックという人が個性的な優れた作家だという事だけははっきり言えそうです。
 
 
 

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