理性と信仰

 ミゲル・デ・ウナムーノの「生の悲劇的感情」に、理性と信仰とがいかなる葛藤を起こすのか、書いてある。
 
 私は読みながら、ウナムーノがドストエフスキーやキルケゴールと近い思想を持っているのを感じた。ウナムーノはキルケゴールを「我が兄弟」と読んでいる。
 
 これらの人は、キリスト教的思想である。しかし、彼らの思想が普遍的なのは、そこに理性の徹底性が介在しているからである。理性は、世界を合理的・論理的に探索していく。その徹底性において、西欧はずば抜けた力を持っていた。それによって彼らは世界を支配したと言っても良い。
 
 理性と信仰の問題について一つずつ説明すると長大になるので、自分の感覚だけで書いていく事にする。
 
 まず、理性というのは信仰と矛盾するものである。しかし、徹底した信仰は、徹底した理性を踏み台として行われる。今風に言えば、あやふやな信仰は理性によって「論破」される。だが、理性は理性そのものを論破してしまう。その時に、向こう側から信仰が現れる。これが思想の道筋だ。
 
 伝わっている自信は全くないが、続けよう。理性は世界を論理によって探索する。だが、この論理はいかなる問題に辿り着くか。それは宇宙の中において、死を免れない人間という個体性である。死は理性の探索の最後に行き着く。死ねば終わりだ、と考えた精神がいかに現実的に努力し得ようか。
 
 こうした事を現代は見てみぬ振りをしている。もう少し丁寧に言えば、理性が眠っているのである。
 
 日本社会や、日本の歴史を振り返って、理性の働きは、西欧に比べれば鈍かった事を思わざるを得ない。理性の働きが鈍かった所に、擬似的な信仰、救済が現れてきた。それが故に、キルケゴールとか、ドストエフスキー、パスカルを襲った絶望に我々は遭遇する事はなかった。我々はおそらく、楽園の中で何か温かい夢を見ていたのだ。
 
 ウナムーノはキルケゴールと同様、絶対的な絶望のみが、神に対する真の希求を呼び起こすと言っている。これは、理性による徹底的な探索を嫌う我々には理解し難い思想なのではないかと思う。我々の社会においては、適度に理性を眠らせ、情感に浸り、周囲と同化する事が救済に当たっている。絶望の果ての救済というのは、我々の歴史にはない。
 
 先程テレビを見ていたら「ポジティブになれる曲トップ10」というような特集をやっていた。ポジティブはネガティブとは逆ベクトルらしい。本物の絶望だけが、本物の希望を呼び覚ます事ができるという思想となんと距離がある事だろう。
 
 現代社会は、どちらかと言えば、我々の心性に近い。つまり、理性を徹底的に働かせない。合理性とか論理性とか言うが、論理とは何か、合理とは何か、その先にあるものについて人は考えない。物質的優位を誇った社会と同一化する事が救済と、この社会では信じられている。そうして、それを実現した人間が不平を言うと人々は怒る。要するに、金持ちが人生の不満を語ると、人々は激怒する。なぜかと言えば、人々は自分達の神学を汚されたように感じるからだ。
 
 理性の答えは最後には自殺に至る、とウナムーノはキルケゴールを引いて言っている。その詳細は書いていないので、わかりにくい部分ではある。私なりに考えると次のようになる。
 
 理性は、神の存在を認めない。世界の向こう側を認めない。理性が自己を眺めた時、それが死に至る個体である事に気づく。宇宙の中で絶対的な孤独であり、ただうめきながら死んでいく泥の塊である自分を眺める。どのような快楽も、愛も、宗教も(ここで言う宗教は理性に捉えられた宗教)、自分を救う事はない。だとしたら、いかにして生きていくのか。
 
 極端な理性は、生の向こう側を認めない。快楽は刹那的で、苦しみが増大していく中、人は生きねばならない。やがて向かっていく死の一点が向こうにある、とすれば、先に「それ」と一致した方がいいのではないか。生が苦しみであるならば、前もって終わらせた方がいい。全てが無意味であるならば、無意味そのものと先に一致した方が良いのではないか。何の為に長い時間を生きねばならないのか。
 
 理性は一種の牢獄である。この牢獄を終わらせるのは虚無としての死だけだ。そうして理性は自裁を計る。理性は自己自身を裁いて、死んでしまう。合理的な探索は必ず、自死に終わる。合理的な探索を行いながらも、自死にも絶望にも至らないのは、単にその探索が不完全だからだ。
 
 ※
 
 例えば、動物を考えてみよう。動物は理性を持たない。だから、生きる意味についても、生きる価値についても悩まない。彼らは生の問題を解決している、と言えるかもしれない。だがここでの解決とはそもそもその問題がないという事なのだ。
 
 我々は、評伝などを読んで、天才がしばしば凡才を羨んでいる姿を発見する。それは、動物には生の問題がないのを羨むのと似ているのではないか。動物は生の問題に躓かない。その問題が発生する以前だからだ。
 
 現代社会は、半ば眠った理性によって、半端な信仰に到達している、と言えるだろう。自己啓発本の乱舞は何を意味するのか。それは理性の先にある信仰ではなく、ただ半端な理性が、半端な結論を手にする姿でしかない。彼らに死の問題を教えても意味はない。
 
 痛みというものが脳のせいであろうと、神経のせいであろうと、化学物質のせいであろうと、痛みの問題は残る。
 
 ベートーヴェンを難聴に追いやった病を現代の医者は、簡単に治す事はできるだろう。だが、その病をバネに偉大な曲を書き上げたベートーヴェンという個体を現代の科学は生み出す事はできないだろう。
 
 ここで何が問題となっているかと言えば、そもそも問題は何かという事なのだ。人間性とか人格といったものが、苦悩や苦痛から生まれてくる事、真の救済は真の絶望から生まれてくるという事。そうした人間的な問題が社会的な問題によって消し去られようとしている事。伊藤計劃やウエルベックのような、現代の優れたニヒリズム的作家はそうした事に抗議しているのだと思う。
 
 ※
 
 信仰は願望でしかない。はっきり言えば、嘘である。だが、真実への探索が己の限界を見出した時、我々は自身の内部に再び情緒的な叫びを発見する。世界の外側に神の実在を感じる。…というか、感じなければならない、という結論に至る。
 
 ウナムーノの本の最後は叫びに終わるが、これを子供らしい叫びと見るか、大人=理性を乗り越えた先の言葉と見るかは、読者の立っている位置によって変わってくる。
 
 現代は理性を眠らせる事を推奨している状態である。知識人は一人もいないが、半端なインテリタレントは無数にいる。この状況は、理性そのものの徹底的行使が避けられているという意味だろう。理性の行使は人を絶望へと追いやる。だがその絶望から新たな力が湧いてくる。その大きな力は「キリスト教的」なものなのか…私は、ウナムーノとかキルケゴールとかいうキリスト教思想家の歴史的功績は、彼らのたどり着いた救済は、キリスト教という枠組みのみに依存しているのではなく、もっと普遍的なものだと考えても良いと証明した事にあるのではないか、と思っている。

 というのは、彼らが近代性を通過した為にキリスト教というものがより抽象化し、その真理が普遍化したからだ。これはキリスト教が世界に教義として広がったという事を意味していない。
 
 そういう意味においては、キリスト教的な異教徒が存在し、異教徒的なキリスト教徒が存在するだろう。西欧から何より学ぶべきは理性の徹底的行使であるように見える。その堕落した形態が、物質に寄りかかった今のアメリカ帝国だろう。私はこの帝国に同意する事はできない…。それよりも不幸なウナムーノに同情する自分を感じる。
 
 

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