成長しない人

 個人的に期待していたある人を久しぶりに観察したら、全く成長していなかった。少なくとも、私の目から見て成長していなかった。
 
 私は(どうして彼は成長しなかったのだろう?)と考えてみた。そこでいくつかの答えが浮かび上がった。
 
 成長というのは、何かに対して伸びていく事である。しかし伸びていく先がなければ、成長しようがない。
 
 成長しない人というのはずっと自転運動をしているようなものだと言える。自分を中心に動いているので、いつまでも変化していかない。ただ瞬間的な嗜好や、目先は変わるので、本人にとっては変化はある。しかし冷静に見た時、成長というものは行われていない。
 
 成長というのはここでは、公転のようなものとしてイメージしたい。地球は太陽を中心に回っている。自分の外側に中心がある。だから、その中心を核として自分が運動していける。自分が動いていけるのは、自分の外側に中心点があるからだ。
 
 この中心点がわからなくなっているのが、現在であると思う。比喩を続けるなら、地球の自転だけがあって、公転がない状況だ。太陽に類するものがないので、大きな運動を行えない。
 
 例えば、精神を病んだ人が妄想を書き連ねた文章というものがある。私はそういうものに、天才の可能性を感じたりする。そのエネルギーとか構想力とか、何かきっかけをつかめれば天才になれたかもしれない、と思う。しかし、妄想というのは、自己に閉じこもった想像力であり、客体性を持たない。彼らはどう動けばいいかわからないまま、妄想という名の自転を繰り返す。
 
 現在は擬似的な中心点が存在している。それは社会的成功だったり、賞を取る事だったりする。しかしそういう「一流」のはずのものは、我々の目には残骸の堆積としか見えない。本来、伸びていく中心点とは彼方に設定すべきものであり、大衆の嗜好をゴールとすべきではない。だがそんな事を言っても伝わらないだろう。現在は「理想」を喪失している。理想が本来ならば太陽の位置に来なければならない。
 
 最初にあげた「成長しなかった人」は、内輪の世界で満足していた。だから成長しようがなかった。自分達のコミュニティで認められたり、比較的近くの社会的栄達を目的としているので、それ以上の成長は必要がない。成長がいらない社会が今である。しかし、社会はこれまでになく成長という概念を鼓吹している。これは社会にとっての適当な成長というのは、遠大な道を通っていく成長とは全く違うものという事だ。そういう長期的視点は望まれていない。
 
 作家の羽田圭介は、新人賞に原稿を送るにあたって、新人賞作品を三年分読み返し、傾向と対策を練ったらしい。これは現在の状況で作家を目指すにあたって、正当な努力と言える。しかし、文学という大きな道を考えるのなら、古典を読み、教養を深めるべきだった。だが、今の作家に深い教養を持った作家はどの程度いるだろうか。
 
 現在の状況だけを見る限り、羽田圭介の努力は正当なものだ。ただそれが、正当であるーーというそうした思考ゆえに、我々の社会は貧弱化しているのではないだろうか。短期的な利益を喜ぶ事で、その裏で何が失われているのかは考えてもみない。崖っぷちに追い込まれれるほどに、更に短期的な利益、刹那的な享楽に救いを求めようとする。
 
 内輪の世界で動いている限り、成長する必要はない。下方には甘やかしてくれる人々が待ち構えている。彼らにアピールするのが「成長」に感じられるというのは、落ちる事が上方への運動と感じられるという不可思議な状況なのだろう。ただこうした状況というのも、歴史を鑑みれば不思議なものではない。文明が没落していく時期とはこういうものなのだろう。没落する時代には没落する事が楽しい。内部で動いている人間にとっては無限の上昇と感じられる。落ちていく彼を社会が是認するからである。落ちていく社会を見つめる観察者は社会の内部には存在しない。彼は異端者としてしか現れ得ない。
 
 中心点がないと成長できないという事について最後にもう少し説明しておこう。孔子はひたすら偉大な先人に近づく事を望んでいた。彼は自分を第一などと少しも考えなかった。その謙虚さが彼を孔子という巨大な存在にまで高めたのであり、その後に来る人間は今度は孔子を中心点として運動していく事ができた。
 
 現在は歴史を殺し、過去を殺している時代だ。一見、過去や歴史を活かすように見える運動もあるが、その多くは現在の鋳型に過去を流し込む操作に過ぎない。先人の偉大性を自分達の手に届かぬものと虚心坦懐に享受する、そういう心性は滅多に見られない。戦国武将はゲームのキャラクター以上の捉えられ方はされないし、哲学は自己啓発以上の見方はされない。過去は消費されている。自分達が自転する為に、あらゆる遺物が燃料として投入されているに過ぎない。
 
 こうした時代にあって、外側の中心点を見つけるのは難しいだろう。人は手近な中心点を探し求めるが、そういう人はその距離までしか行けない。三流の人間を持ち上げる事によって、三流の末席に入れてもらう、という光景が至る所で頻出している。…理想論だけでは生きていくのは難しいだろうから、時にはそうした態度を取る必要もあるだろう。
 
 本当に自分の外側に大きな理想を持っている人がどれだけいるのか。なかなか難しい所だと思う。それでもある種の人は植物が太陽を目指して伸びていくように、暗い時代でも光を目指して伸びていくだろう。そうした人は、現在という井戸の壁を壊して先へ進んでいくだろう。私はそうした人がいると信じたい。その為には、井戸の外にある太陽を少なくとも一度は目にする必要があるだろう。
 
 

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