感動のない人々

 いわゆる普通の人と話していると、「この人達は何にも感動した事がないのだな」と感じる。彼らは、精神の浅瀬に留まっているという印象を受ける。そこで、少しでも深いレベルの話をすると「え、何か難しそう」とか「マイナーな話をしている」という反応になる。それで彼らに合わせた話をする事になる。
 
 しかし、こうした「感動」の話をしても、感動した経験のない人にはまるで伝わらない。彼らには感動の「基準」がないからだ。何かに本当に強く心を揺り動かされた事はないし、自分の存在が揺らいだ事が一度もない。だから、傍目には彼らは安定しているように見える。彼らの安定は動かない所から来ている安定にすぎない。
 
 アンドレ・ジッドと亀井勝一郎を別々に読んでいたら、丁度、同じような事を言っていた。つまり、何かを愛するというのは排他的な側面があるという事である。深さとは狭さとも関わりがある。狭くするから、深い所に落ちていける。亀井勝一郎が取り上げていたのは本居宣長と内村鑑三の二人だ。本居にしろ内村にしろ、排他的な側面があるが、その分、彼らは日本の思想家では相当に深い部分まで潜っていった存在だと言える。
 
 何かを愛するとか、何かを理解する。考える。自分の足で進んでいくという事は、深さと狭さがある。ある孤立した系であるが、その個性の中に普遍性がある。天才が偏狭なイメージを持たれるのは、その為でもあろう。時に、天才も間違った事を言う。しかし、それ以上に彼は、正しい「以上」の事を言う。だから、天才は天才として名を残す。
 
 普通人に目を向けてみよう。彼らはある意味で、フラットに物事を見ていると言える。何事にも深く入り込まない。何事に対しても「熱く」なれない。なるとしたら、自分の利害とか、刹那的な主観に関わる事だけである。彼らは何事をも趣味的に見る。あれもこれも趣味である。何を好きになろうが、嫌いになろうが、趣味でしかない。ネットに転がるコメントを見ればそれがよくわかる。それぞれに正しそうな、まっとうそうな事を言っているが、その意見のどれにも何の魅力もない。
 
 魅力がないのは、何事にも深く入り込まないからだ。フラットな平面を浮かんでいて、精神の浅瀬に留まっているからだ。言い換えれば狂気的な部分が全くない。そこで、彼らはただ漠然と常識とか、多数者が肯定しているものを肯定している。ある作品が流行すれば自分もその作品を見て、わかったような、楽しんだような気になってみるが、本当に自分が好きなのかどうかはわからない。自分の中にあるものに確信を持てないので、常にまわりを見てキョロキョロとしている。
 
 全てが趣味である人からすれば「AKBが好き」と「ドストエフスキーが好き」は同一次元の事柄である。こういう意見の人は多い。実際の所、それは意見と呼べるほどのものではないし、何に対しても深く入り込んだ事がない人には全てが平面に見えるというにすぎない。「嵐が好き」と「シェイクスピアが好き」も、ただ「好き」のベクトルが違うだけ。人それぞれ。みんな意見が違うよねー、という事で、全てがフラットであるなら、フラットな世界の中で多数者が集った箇所に価値があるという理論になる。それが民主主義と資本主義という制度によって援護を受けている。
 
 趣味の人にとっては全てがフラットだから、感動という事がわからない。人は自分の経験を元に他人を判定するので、誰かが「トルストイが好きだ」と言っても、それは「韓流ドラマが好きだ」と同じだというような捉え方しかされない。ここにおいて、感動というものの深浅は、大衆的次元では平面に並べられるというのがよく見える。それらが凝縮したり、離散したりして現在の「ブーム」らしきものが作られる。
 
 しかし、感動のない人の好悪というのは所詮、それだけのものだと私は思う。それは結局はつまらないものであると。烏合の衆がいくら集まっても烏合の衆であるのは変わらない。だから、時間の中で残っていくのは深い感動から為されたものだと思う。それらが、大きな時間軸の中で精錬され、ふるいにかけられて残っていく。そういう気がする。
 
 感動のない人についてもう少し述べられると、彼らは理想がないという風にも言い換えられる。彼らは自分の主観の外側に何も持たない。自分の外側に何の価値観も持たないので、いつも自分に巻き付いている。自分の主観から離れられない。
 
 普通の人の、愚痴ともノロケともつかない話をよく聞く。私はそれを肯定も否定もしない。ただ聞いているだけだ。結局、それが正しかろうが間違っていようが、その時々の気分や、自己正当化や、相手との関係でそうなっているだけで、それ以上のなにものでもないと感じられているから、何も言わない。自分よりも大きな価値観を持って、自分よりも高いものを目指しているわけではないので、私にはどうでもいい事のように感じる。そうした個々の事柄は現在という時間上に結びついて、そのまま流れ去っていくので、流れ去るがままに流してそれでいいだろうと思う。実際、彼らも自分の言った事をすぐに忘れる。
 
 感動から得られた価値、自分以上の価値は、自分自身を相対化する意味を持つ。それは太陽のようなもので、その大きさがあるから、自分の卑小さも感じられる。自分のちっぽけさが感じられるからこそ、人は何者かになろうと思う事ができる。自分の主観が全てである人は何者にもなれない。ただ今を生きているだけの人だ。
 
 そうした人が普通の人であり、彼らが支配しているのが今の世界だろう。この世界がフラットになっていくのは当然とも言える。深さはすぐに埋められていく。全てが平面であれば、怖いものはない。それぞれに好きとか嫌いとか言って、あとはその離合集散で騒いでいればいい。渋谷のハロウィンとあまり変わらない。
 
 次のような言い方もできるだろう。「嵐が好き」「AKBが好き」という人は、それらを尊敬しているわけではない。ネットで「好き」「嫌い」という人は非常に多いが、尊敬している、という人は少ない。尊敬という感情は価値観と関わってくる。
 
 また、尊敬している場合でも、相手の内容を把握して尊敬している人は非常に少ない。ただ、外面的なレッテル、〇〇賞を取ったとか、いくら稼いだとか、そうした事で尊敬しているという程度の人がほとんどだろう。感動の欠如は、内実に対する把握の欠如と関連している。何も知らない人間だけが、世界を平面に眺めて、全てがあるべき所に収まっているような気がするのだ。
 
 こうした事をいくら書いてもきりがないので、これぐらいにしておく。いずれにしろ、私は、感動の欠けた人々の「数の論理」が世界を引っ張っていくとはとても思われない。他人に対して及ぼす最も深い影響は「感動」であろう。何にも深く感動した事のない人は、本当は不幸な人なのだろうと思う。彼らがキョロキョロとまわりを見渡し、自分の感受性もまわりに合わせて規整しているのを見るとそう思わざるを得ない。
 
 深い感動はその人を動かしていく。「感」じて「動」かす、のが感動だろう。感動はその人の外側に自分以上の価値がある事を教え、そこに向かってい人を作り出す。そこでは能動と受動が止揚されている。世界を本当の意味で動かすのは、感動によって動いていく人だろうと思う。感動を知らない人は、全てを平面に眺める趣味の人である。彼らは動画を見て「いいねボタン」を押すかもしれないが、それ以上の事はしない。そうして世界は座して動かない人を置いていく。何よりも変転し、蠢いているというのがこの世界の特徴だからだ。
 

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