神性の喪失の喪失としての現代

 現代の作家が書いたものを読むと(これを書いたとして、だからなんなのだろう?)と思う事がよくあった。もちろん、その作家にしてみれば、それが「書きたい事」だったり「創作意欲が湧いた」とか「賞が欲しいから」とか、色々あるだろう。だが、私が聞きたいのは『それ』ではない。だが『それ』ではない、と言った瞬間に、私は孤立の状態に落ち込んだ。それ以上に突っ込んで考えようとする人は少数で、周囲にはそんな人は見当たらなかったからだ。

 

 自分の作品に自信がない場合、他人の評価に依るしかない。多くの人が評価してくれているとか、沢山売れたとか、賞を取ったとかいう事が、世間では作品の価値を決めるものだと認められている。もし、自分が自分の作品にはっきり意味を与えられない場合は、他人の価値判断に頼る事になる。自分で自分の作品を対象化して「何であるか」を決められないのなら、「何であるか」を決めるのは他人だ。

 

 だが、他人とは結局は、自信のない自分と同じような人達でしかない。他人達も確固とした基準を持っているわけではない。他人達は、日常感覚に近い、「わかりやすくて面白いもの」を求める。他人達は高い価値を、冷静な識見で判断するのではなく、自分に近い、心地よいものを探す。そうなると作品は、次第に日常に近づいていく。ユーチューバーのようなものは、日常そのものだ。日常そのものが、視聴され、体感されて、大勢に共有される。そうしたものが肯定される。

 

 そこには動きというものがない。認識が動かない。多くの人間は、優れた認識を持とうと努力しているわけではなく、自分にとって心地よいものを求めている。彼らにとっては心地よいものだけが「価値あるもの」だ。

 

 こうして作品と呼ばれるものは全体に共有されるが、それは緩やかに所有されるというようなもので、みんなの手が届かない価値があるものではない。…というより、そもそも、価値とはどのようなものか、というのがまるでわからなくなっている。わからないから、他人達に作品の価値決定は委ねられた。それは我々の日常感覚の延長に留まり、そのまわりをぐるぐると旋回し続ける。

 価値観がないという事態は色々な滑稽な状況を生む。とある作家が「小説は自由だ」と言って、好き勝手に書いて、それが「文学」だと信じていた。これはそもそも価値観が喪失された状態なのだが、喪失されたという事さえ喪失されているので、ただ無邪気に暴れまわる事に意味があるような気がしているだけだ。無秩序が極まると、それが無秩序という事もわからなくなる。

 

 ノーレン・ガーツの『ニヒリズムとテクノロジー』という本を読んで非常に面白かったが、その中に次のような文がある。

 

 「『神は死んだ』とは、文字どおり神を殺したとか、宗教の終わりを意味するものではなく、神が意味するものが死んだという意味である。神はもはや神の役割を果たさなくなった。しかしそれは科学が勝ったからではなく、ニヒリズムが勝ったからだ。ニヒリズムーー価値、意味、願望の徹底的拒否ーーは、人を、神についての価値、意味、願望を拒否する方向に導いてきた。」

 

 「神は死んだ。なぜなら、神はもはや私たちの満足する答えを出してれないからである。『神』はあまりにも長く、あらゆる『何のために?』にも答えを出してくれるものとして語られてきた。」

 

 要するに、神という絶対的な価値観が消失して、ニヒリズムが現れた。ニヒリズムとは価値観の喪失である。最初に私が言ったのは、この価値観喪失の状態である。

 

 こうした状態は、普通のものとしてある。今やニヒリズムが基本ですらあるので、価値観が喪失しているというその意味すらわからなくなった。私が現代のあれこれに感じるように、現代においては「何のために?」という問いは根底的には禁じられている。経済成長は「何のためにあるか?」と言われれば、暗黙裡にそれは問うてはならないという圧力をかけられる。

 

 というのは、神が死んだこの世界において、我々=主体が絶対となったのであって、この主体を喜ばせ、心地よくしてくれるものなら何でも「いい」ものだとされているからである。この主体そのものは、主体が絶対化された事によって、見えないものとなった。主体は不可視になった。

 

 今は哲学や文学は人気がない。哲学者、文学者を名乗る人間がまるきり、哲学も文学も知らない、単なる雑学としての哲学や文学を紹介する人間でしかないパターンも多い。何故こうなったのだろうか? 私の答えは、哲学や文学のようなものは主体それ自体を俎上に上げるものであるからだと思う。絶対化された主体を、対象化して取り上げられる事には拒否反応がある。簡単に言えば、哲学や文学をやる人間は「根暗」で「気持ち悪い」とみなされるという事だ。この時、「暗い」という言葉の意味は自己を見るという事である。人は外を見ている時は明るく、自己を見つめる時は暗いとされる。

 

 自己の対象化には拒否反応が起こる。それに比べて、科学は尊いものとされる。これは自己を対象化せず、自己の外に無限に出ていく。絶対化された主体は、主体に取って良いものを科学は見つけ出してくれるだろうと期待して待っている。科学はどんどん外に出ていく。ミクロの領域へ、マクロの領域へ、地球の外側へ、月へ、火星へ。様々な「外」に科学は出ていく。そうしてそこで得られたものは主体にとって役立つものとして戻ってきてくれるだろう、と予測されている。だから、科学は人気が高い。科学は自己を見つめるという暗い行為をしないからだ。

 

 主体というのがブラックボックスとなって、見えないものとなり、絶対化されている。それを覗き込むのはタブーである。ここには価値観の喪失があるのだが、それは、主体にとって良いものは良い、という価値観が、神の存在に取って代わられたという意味である。主体にとって良いものは良い、というのは立派な価値観ではないか、と人は言うだろう。しかし、主体そのものは、何であるべきか、人間とはどのように生きなければならないか、という主体そのもの、言い換えれば、人間はいかに生きるべきかという価値観がここでは根本的に喪失されているのである。

 

 人間が、人間の外に絶対的な存在(神)を求めるのをやめた日から、人間が神の座に昇った。そこで人間は途方に暮れた。次に何をすればいいかわからなくなった。人間は、「何をすべきか」、人間とは「何であるか」を考えるのをやめた。ただ、自分達にとって心地よいものだけを追求する事にした。人生の全体が何であるかを決定づけるという仕事は、もうやらなくても良い。ただできる限り死を先延ばしにして、人生を楽しむ事。それを人々は自分達の哲学とした。正確には、非哲学としての哲学とした。

 

 ※

 

 ここで一度、過去に戻って、近代文学とは何だったかについておさらいしておこう。それが現代はどういう時代かをわかりやすくしてくれるだろう。

 

 近代文学は何より、神の喪失という形として現れた。神の喪失とはニヒリズムであり、価値観の喪失である。しかし、近代文学には喪失を喪失と感じられる感受性があった。それが近代文学の本質を形作っていた。近代以前の、神が存在していた時代においては、「何のために生きるべきか?」といった問いは、問われる必要がなかった。そこでは生の実存を問う必要はなかった。人間の生は神の手の内に収まっていた。そこでは、生そのものを問う必要はなかった。

 

 神の凋落が目に見えて、生とは何かを問わなければならくなった。始めは、ニヒリズムの発露としての、自己の欲望に沿った生のあり方は批判的に眺められていたが、やがて肯定的に見られるようになる。こうして近代は現代へと移り変わっていく。

 

 「クレーヴの奥方」「マノン・レスコー」といった小説は、近代初期の傑作だ。二つとも恋愛小説だが、恋愛というのは批判的に作者に眺められている。そこでは欲望の充足は良いもの、素晴らしいものではなく、人間を破滅に導く間違ったものとして見られている。特に「マノン・レスコー」では、恋愛は明らかに嘲笑的に描かれている。「恋愛なんかにはまるからこんな目に遭うんだ」といった調子である。それにも関わらず「マノン・レスコー」は恋愛にまつわる喜びと苦悩を徹底的に描いている。このあたりにこの作品が傑作として見られる理由があるのだろう。

 

 ルネ・ジラール「欲望の現象学」の第二章のタイトルは『人間はお互いにとって神である』となっている。どうして人間にとって互いは神なのかと言えば、神が喪失された後も尚、人間は神性を、他者、つまり他の人間に求めたからだ。

 

 神が消えたとしても、神に該当するような超越性を探し求める癖は人間の内に存在したままだ。だから、超越性は他者に求められる事になった。人間は、他の人間に超越性を付与しようとする。こうして『人間はお互いにとって神』となった。

 

 近代文学は、破滅に至る恋愛を描く話が非常に多い。恋愛というのは、異性の相手に神性を付与しようとする行為だと、この文章上では考えてみたい。それは、失われた神性を、互いの人間に求めようとする行為である。だが、人間は遂に神ではない。だから、恋愛は挫折せざるを得ない。人間は決して神になれない。どんな美しい女も女神ではない。男の欲望をどれだけ聖なるものだと考えてみても、最後には肉欲に堕してしまう。人間は神ではない。最後には挫折、破滅が待っている。

 

 近代文学の偉大な恋愛小説、例えば漱石の「こころ」とかフローベールの「ボヴァリー夫人」はそうした作品だったと私は思っている。そこには、高い理想を求めて挫折する個人が存在する。人間が遂に自分の利己性に気づかざるを得ない悲しみがある。そこでは、追われている理想が、肉欲としての恋愛の背後にある。だからこそ、ああした作品は傑作なのだろう。

 

 一方で、現代に目を向けると、そこではもはや理想は一体どういうものかわからなくなっている。神が喪失され、絶対的な価値観は消えてしまった。そして、それが消えてしまった事さえも忘れられてしまったので、恋愛はただ男女の気まぐれな結びつきや離散になってしまった。人間の背後に神性を求める運動は終わってしまい、存在するのはただ俗な人間関係だけだ。現代の作家の描く恋愛小説が多く、近代の傑作に届かないのはそうした事情があるように思われる。描かれている事象は同じだが、背景の理解がまるで違うのである。

 

 ※

 

 整理しよう。近代以前は、そもそも「いかに生きるべきか?」と考える必要のない時代だった。神が来世や彼岸に鎮座していて、此岸としての我々に意味を放射していた。生きる意味はそこで担保されていた。それを信じる事が普通だった。だから生きる事について考える必要はなかった。答えは既に出ていたからだ。

 

 近代になって、亀裂が入る。近代は神の凋落期であり、過渡期である。近代において、人は、空っぽの実存の宇宙に放り出される事になった。凍える宇宙の中の孤独な人類ーーそうしたイメージ、リアリズムからイメージから来るイメージが、人間を厳寒の孤独に置く事になった。パスカルは早くもそうした世界に気づいていた。

 

 神の手に抱かれた、必然的な世界ではなく、世界は寒い、孤独な場所であり、神は存在しておらず、惑星系は地球を中心に回っているわけではない…。地球はただ太陽のまわりをぐるぐる回っている一惑星に過ぎない。誰しもが自分は「特別だ」という錯誤から人生のスタートを切る。成長するに伴って、自分は特別でもなんでもなく、ただ他人と同じように生きては死ぬ個体だと感じられていく。同じように、地球も人類も、どうやら神に守られているわけではないらしい。我々は実存の宇宙に突入していく。人間は裸で宇宙の中で孤立していく。信じられるものはもはや存在していない。

 

 近代においては、まだこうした失墜のイメージが存在していた。だが同時に近代は、向上の時代でもある。生産性が向上し、人間は豊かになっていく。人間には「人権」があるとされ、「我思う故に我あり」や「神の見えざる手」といった概念が、向上していく世界を支える概念となった。人間は豊かになり、次第に生活そのものに大きな意味が付与されていく。神の権利を奪い取り、自分達のものとする戦いは、人間の勝利に終わった。

 

 だが全てが終わったわけではない。結局の所、人間が神に求めていた神性、超越性は果たしてどうなったか? 近代においては、失われた超越性を、別の場所に探し求める試みがされていた。ヘーゲルの哲学は超越性を社会に、歴史的進歩に求めている。ニーチェはそれを個人の中に探し求めた。ヘーゲルとニーチェは似ていないが、失われた超越性を、神とは違う場所に探し求める行為としては同一な試みと見られるだろう。だがそのいずれも、神に変わる宗教とはならなかった。超越性を探し求める行為そのものは未だに続いている。

 

 未だ続いている……と今、私は書いたばかりだが、それはしかし、ほとんど死にかけている行為となっている。我々の世界にはもうヘーゲルもニーチェもいない。小説はただ俗な生活を写し取るものとなった。映画も同様であり、それであれば、人間の俗な欲望を昇華するエンターテインメントの方が人々には喜ばれる。芸術は死にかけており、エンターテインメントが繁栄を極めている。

 

 現代の世界を見てみよう。どこにも俗なものしかない。「どいつもこいつも通俗小説しか書いてねえじゃねえか」と小林秀雄は啖呵を切ったが、それは今の世界にもそのまま通用する。どうしてこうなったかと言えば、神性を求める行為が放棄されたという事だ。神性を求める行為は馬鹿らしく、非現実的なので、俗なものの極限、俗なものそのものを神的なものと考える他ない。こうして我々の現代が形作られていく。

 

 我々の世界において、生には何の意味があるのか、と問う事はできない。それよりも生を豊かにする無限の選択肢が提示され、努力次第でそれを手に取れるとされている。それは可能かもしれないが、その可能性の先に「何があるか?」と問う事はできない。

 

 超越性は最初、神という形で人間に現れた。それが生の意味を形作っていた。近代において神が崩落し、神性を探し求める行為が行われた。だがそれは、今の我々には絶対的なものには見えなくなっている。そうして現代がやってきた。現代においてはそもそも神性というものが何を意味するのかよくわからなくなったし、時折、目覚めた人間がそれを求めようとしたら、まわりの人間がやってきて「そんな事はやめろ」と忠告する。そうして現代の社会が与えてくれる様々な麻痺剤を使って、自分達の精神を弛緩させておく。目覚めて、生きる意味を求めたり、自分達が何の意味もない宇宙に孤独でいると気づかせない為に、我々は努力をする(ここには深い自己欺瞞がある)。

 

 我々の努力とは何か? それは瞬間を永遠に変え、日常を至高のものとする、というものだ。くだらない配信をしている人間でも、多数の人間が支持すれば、意義深いものとなる。彼は「結果を出して」いるし、「多くの人を喜ばせているから」いい、というわけだ。こうして、現代においては、普遍的なもの、偉大なものを探し求める行為は排除される。その代わりに、人間=主体が自分達を肯定し続ける空間が構成される。主体そのものが何であるのかは問われない。主体が何であるべきか、という価値観は構成されない。構成されるのは「主体にとって何が良いのか?」だ。

 

 だから、この世界は完全なニヒリズムの世界だと言えるだろう。世界はニヒリズムだ、と言えば人々はそれを拒否するだろう。「私は自分を肯定している」「私はポジティブに頑張っている」等々…。もちろん、それはニヒリズムがあまりにも浸透しすぎた為に、それを意識できなくなっている状態なのだ。ニヒリズムが極限を越えると、かえってポジティブになる。我々の前向き、ポジティブはそういうものである。つまり、この世界は神が死んだ世界であり、更には神が死んだという意識すら死んだ世界である。そういう荒野が今の世界であり、この世界においてはかえって全てが活性化され、楽しいものに見えてくる。

 

 ドストエフスキーのような作家は、自我に取り憑かれた人間の破滅を描いて、その裏側にある、人間の自我を越えたものを指し示そうとした。だが、現在の我々はドストエフスキーが語ろうとする所よりも、彼が語った部分に対する共感、つまり自我に取り憑かれた登場人物に共感する事に、その作品の傑作たる所以を見出そうとするだろう。

 

 「ドストエフスキーは面白い」。それはつまり、我々がドストエフスキーが否定せんとした当のものである、という事だ。しかしこのような逆説的な方法も、それが何かわからなくなるほどにニヒリズムは進捗したのである。誰しもが悪霊に取り憑かれたので「悪霊」という作品のテーマは、全く不可解なものになってしまった。

 

 こうした世界において、神の代わりを探すのは難しい。それに個人の発案でそれがどうにかなるとも思えない。喪失さえも喪失されたので、我々には世界がフラットに見えるようになった。歴史を根こそぎ破壊したので、世界は平面で構成されているように見える。それはあらゆるものに絨毯爆撃を行ったからで、我々はその破壊すら忘れた。

 

 我々がいるのはそういう世界だという認識を持つのが大切だと、私は考えている。それに対する処方箋を案出する気は今の私にはない。まず認識する事が大切であるし、処方箋、つまりポジティブな言葉は、語ってしまえば嘘になるものだし、それについて口を噤みたい。とにかく、私の現状の世界認識はこんなものだという話である。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?