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人々は何を信じているのか

 知り合いと話していた。テレビにガクトが映っていたので、「ガクトなんかはエセアーティストなんだよねー」と私は話していた。私はガクトの、自分を「アーティスト」だとする演出は偽物だとずっと思っていた。画家が絵を描かずに、ベレー帽を被って横顔を練習するようなものだ。

 するとその知り合いは「でも、自分は、何か秀でた所があるからガクトはああいうポジションにいるんだと思いますけどね」と言った。私は、それに反応して「その考え方は駄目だよ」と言った。相手は「そうっすか?」と言った。

 時間がなくて何故駄目なのかは話せなかった。まあ、ただの雑談なので、説明できなくても大した問題ではない。

 ただ、私は後から、相手の発言を思い返して、納得する部分があった。この、「何か秀でた所があるからああいうポジションにいる」という考えは、大衆が何を信仰しているのかを端的に語ったものに思えたからだ。

 私が話した知り合いもそうだが、彼などは「宗教なんてただの迷信っすよねー」という態度を取る。彼は宗教について詳しく知っているわけではない。

 現代の人間は自分は何も信じていないと思っている。無神論者らしい。彼らは自分が何かを信じているとはつゆとも思っていない。私も昔は、そんな常識の中にいた。ただ、ある程度本を読んで、色々な物事を相対化できるようになってくると、自分がぼんやりと信じていた事が間違いだったとわかってくる。私の知的成長は、信仰から抜け出し、自分の信仰を相対化していく過程にあると言っていいかもしれない。

 今の人は、自分は何も信じていないと思っている。それは、ある一つのものを当たり前のように信じているからで、自分達が信じている事を意識できないほどに信じ切っているからだ。今の私はそう考えている。

 それについて説明する事は、恐ろしく難しい事に違いない。それは、海の中にいる魚に「あなた方は海にいるんですよ、そこは空でも陸でもないですよ」と説明するのに似ている。「海」というものを相対化するには、それとは違う、「陸」とか「空」とかいうものを知っていなければならない。だが、海しか知らない魚は、それが海であるという事もわからないだろう。

 何故なら、それがそれであると認識するには、それとは違うものとの差異によって判定しなければならないからだ。海の中にいる魚に向かって「あなたは海にいますよ」と言った所で「海? 海ってなんです? 私達のいるのはそんな『海』なんていうへんてこな所ではないですよ。私達はただ当たり前の世界、当たり前の場所にいるだけですよ」…おそらくこんな風に答えるだろう。彼らにとって、「海」を認識するのは難しいだろう。

 だから、この文章もそもそも「誰」に向かって書かれているのか難しい所だが、虚空に放るつもりで書いておこう。

 私は「何か秀でた所があるからああいうポジションにいるんだろう」という発言を取り上げたが、これなどは庶民の心性を的確に語った発言だと言えるだろう。

 つまり、彼らは、社会の上層にいる人や、有名な人などは、何らかの形で「秀でている」から、そこのポジションにいると思っている。こうした考えは社会の安定化に寄与している。何故なら、「何はともあれ、秀でた人が社会の上に昇っていく」と考える事は、「秀でていない自分が社会の下にいるのは仕方ない」という考えの元になるし、「秀でた人が上に昇っていくのだから、社会に文句を言っても仕方ない。上に行きたければ、努力して秀でてしまえばいいだけだ」という考えに繋がっていくからだ。

 メディアの報道によって有名人や政治家といった人達がどれだけ醜態を晒そうと、東京オリンピックの開会式のように、国家的な規模で動いて、低次元の学芸会レベルのお遊びを世界に晒そうと、それが庶民の価値観を徹底的に破壊する事はない。庶民は、社会の上層で何が起こっているのかはよく知らない。彼らは無知という名の母胎にくるまれて、夢を見ている。それは「この社会は秩序立っている」という夢だ。

 宗教を馬鹿にしている人というのは、宗教を深く知らない。宗教を深く知っていくと、そこには人間的な実在性がある事がわかるので、批判をするにしてもある程度のリスペクトは払われる事になる。この社会は秩序立っているという考えは、この社会の中枢を知らない・知ろうとしない事から生まれてくる。

 崇拝する事と軽蔑する事は、真逆のように思われているが、実際には極めて似通ったものだ。崇拝も軽蔑も無知から生まれる。

 「東大生は天才だ」と言っている人は、東大という組織の中で実際に何が行われているのか知らない。また、学校の勉強を一生懸命するとはどういう事なのかと、考えてもみない。軽蔑もまた、崇拝と同じように、対象の内実を考えないという態度から生まれる。人々が宗教を下に見るのは、宗教が「流行り」ではないからであって、彼らは宗教の内実についてはわかろうとはしない。

 大衆は一方では、この社会を秩序立っていると考え、もう一方では、それに満たないものを蔑む。例えば「ニートの意見には意味がない」など。私はその時代においては、ニートとか、犯罪者とかだった天才が過去に数多くいたと知っているので、そういう判断の仕方はできない。しかし、私のような考え方は、おそらく社会不安を生むだろう。何故なら、私は社会が与える価値観によって考えているのではなく、自分の頭で考えているからだ。

 ※
 「何か秀でた所があるからああいうポジションにいる」という考えについて考えてみよう。この発言はある意味で秀逸である。というのは、どの時代、どの地域、どんな価値観の世界においても、この言葉はその社会の大衆の考えを述べているものだと考えられるからだ。

 これが中世のキリスト教社会に発せられたものだと考えてみよう。痩せたボロ雑巾のようなキリストその人とは違って、キリストの教えを受け継いだはずのキリスト教者が、高位高官を経て、威張り腐っていたとしても、「何か秀でた所があるからああいうポジションにいる」と考えれば、その社会に疑問を感じずに済む。現代の人間が過去の宗教を「迷信」だと蔑んだとしても、実際には蔑んでいる人々と同じように、当時の人々は自分達の社会秩序を信じており、それ以外のものを蔑んでいたのだろう。

 これらの事でわかるのは、大衆というのは、それがどのようなものであれ、それが所与として与えられる限りにおいて、彼が生存している社会体制、世界の在り方を信じているという事だ。

 重要なのは、「それがどんなものであれ」という事だ。しかし、人々の意識にとってはそうではない。「宗教は迷信であり、利益を追求するのは合理的だから」というような、精神の合理化が必ず行われる。実際には、世界が与える鋳型に合わせて、自分達の魂を鋳造しているのだが、それに彼らは気づかない。それは「正しいから」という風に主体的なものとして捉えられる。

 この事は、自分の生きる意味について問う事はない、という大衆の安堵にも繋がっていく。現在の大衆が、ゲームやアニメなどの様々なエンタメ作品、または趣味・恋愛などの私事によって満足しようとするのは、彼らが最初に、あるものを信じており、その信じているものは疑わないという黙約を交わしており、その剰余部分において自他を満足させようとしているからだ。

 彼らの信じているものはこの世界が現にある様である。現にある様、という点を私は強調したい。社会の上層にいる人間もなにかのきっかけでこぼれ落ちたりする。そもそも、人間は全て老いて死んでいくので、全ての人間はいずれは没落する運命にあるのだが、人々はそれには目を向けない。彼らが信じるのは「現に」ある様である。

 だからガクトが凋落する事があっても、知人は驚いたりしないだろう。「秀でた所があったからあのポジションにいたはずなのに、どうして駄目になってしまったんだろう?」などと考えたりしないだろう。そもそもガクトが一体何において秀でていたのか、そもそも社会において秀でるとどういう事か、とは考えないからこそ、先のような思考が出てくるのだろう。

 ガクトが消えても別の人が必ず出てくるから、今度はその人を「何か秀でた所があるからあのポジションにいる」と思えばいいだけだ。信仰対象は、入れ替わり可能だ。

 例えば、オウム真理教のような集団、我々とは違う価値観を持った集団は、我々には「頭のおかしい奴」としか思えない。この場合、その集団を深く知らなくても、我々は率先してそういう判断を下す。

 先の知人と話している時、私は三島由紀夫の自決事件の話をした。「三島由紀夫はこういう死に方をしたんだよ」と私が語ると、彼は「世の中には変な奴もいるんですね」と言った。私は、三島由紀夫を「変な奴」と断定する彼の言い分にむしろ驚いた。

 だがこの心性は大衆というものの本質を考えれば納得できる。三島由紀夫は「変な奴」であり、オウム真理教は「頭がおかしい」、あるいはオウム真理教は犯罪を犯した集団だから分けて考えてもいいが、いずれにしろ、我々が信じている社会体制とは違う価値観を持ったものは全て「変」なものとして、我々には捉えられるのだろう。

 おそらく、これはぞっとするような考え方、既に実現したディストピアを語るものだが、我々は最初から「それ」であるので、その事について疑うという考えも浮かばない。

 こうした社会において、その本質を疑う事も許されていない世界において、この世界の在り方にただ適合して、「うまい事やろう」とする、合理的に利益を上げようとする、深く考えず、自分達が得をするように行動する、そうした人々が増えるのは当たり前と言えば当たり前だろう。

 また社会の上層からすると、この世界の在り方を批判したりしない、そうした若者は「有望」な人達に見えるだろう。彼らが有望なのは、それを評価する人々にとって都合がいいからだ。

 私はだから革命を起こせ、とか、徹底的に批判しろ、と言うつもりはない。ただ、私はこの世界のデタラメを目にして、子供の頃から教え込まれてきた世界観が間違ってきたと反省しただけであり、その反省が私を孤独にしたが、その孤独には歴史的にはそれほど意味がないわけではない、と思っているだけだ。

 この文章はこれで終わるが、知人との会話は、人々が何を信じているのかを明瞭に表しており、私には勉強になった。また、信じている人ほど自分自身を「何も信じていない」と思っている有様も如実に体感できた。

 私は、人を見る目が全然ない人が「私は人を見る目だけには自信があるんです!」と言ったのを聞いた事がある。これなども、その人の主観から見れば全然間違った事ではない。ただこの世界の在り方はその人の主観の通りに行かない、という事だけだ。

 この世界の在り方を問う事は、この世界そのものにとって好適な事ではないにしても、この世界の在り方そのものが時間の持続を辿って、自分達とは違う「他者」と巡り合って変化していくだろう。この世界の人々がいかに自分達を合理化しようとも、その変化そのものはコントロールできないもののように、私には思われる。


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