末期症状

  若い女の子と話していて「金持ちと結婚したい」という願望を何度か聞いた事がある。これも格差社会の兆候だろう。
 
 今の格差社会は、経済の自由競争の結果だと自分は考えている。過度な自由の主張は、必ず隷属に辿り着く。これは歴史の法則に思う。

 アメリカという自由の国は、強烈な格差・階級を生み出しつつある。それというのも、自由競争の結果、勝者と敗者がはっきり確定したからで、一度この差が強烈につくと、もはや争うよりも、上に媚びた方がいいという風になる。あるいは下層の生き方に甘んじるか、それでも鬱屈するというならば、自分達よりも下の人間を見つけて排撃する事になる。
 
 人間の精神は多く、現実に屈服するようにできている。腹が減っていては、まともに頭も働かない。イデオロギーなどはいくらでも後から生まれてくる。理屈はどうとでもなる。最初に力がある。屈従がある。勝利がある。その後に勝利の理由が、敗北の意味が生まれてくる。
 
 力の差がついた社会では、上の人間に闘いを挑むのは「馬鹿な」選択肢という事になるだろう。それよりも、上に媚びた方が良い。上が間違っていようと、残虐であろうと、何であろうと、上に媚びて、自分を売って、地位を引き上げてもらう。これが現代社会における「利口」な行動という事になる。
 
 ネットでしばしば見られる言説は、社会の問題を個人の問題にすり替えるというものだ。個人レベルで、地位が上昇すれば、その個人の問題は消えるに違いない。しかしその事は社会の問題の解決ではない。個人レベルの解決は、むしろ社会の問題の増大に繋がる。それでも、誰しもが個人レベルでは救われようとするので、社会の問題はますます大きくなる。格差は広がる。
 
 奴隷はいかにして救われるだろうか? 奴隷制そのものを改革するのは骨が折れる。だから、奴隷を鞭打ち奴隷となって、看守に媚びを売る事から現代の上昇物語は始まる。最後には奴隷達を一斉に鞭打つ看守長になれるかもしれない、という夢と希望が我々の前には開けている。
 
 …今のテレビを見ていると、多くの事柄が内輪で行われているのがよくわかる。事務所が金で買い取った賞が「実績」として臆面もなく、テロップとして現れる。ある番組に出たというのがきっかけで、他の番組に出るきっかけになる。テレビ局が売り出したいと思った人物が番組に出ると、それが事実=実績として、「次」に繋がる。
 
 出版社がタレントに小説を書かせて、前もっての黙契で、○○賞の候補になる。するとその候補になった事が実績となって、また他の番組に出る。なるほど、このタレントは実力者に違いない。なにせ、〇〇賞の候補であり、有名番組の△△に出ているのだから。
 
 もちろん、こうした文句を言うのは損でしかない。自分がもしタレントとして、一役もらえるという餌をぶら下げられていたら、私もこんな悪口は言わなかっただろう。文句を言うよりも媚びた方がよほど得である。批判は良くない、称賛は素晴らしい、という人々は既存権威の上書き以外にその言説は向かない。誰も褒めないものを褒めても、誰も見向きしはしない。肯定は素晴らしい、とはただ、自分達の価値観を汚されたくないという思いでしかない。しかしその価値観は最初から汚されていたので、彼らはそれについてはなんとしても考えたがらない。
 
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 他にも傑作なものはたくさんある。個人的には「カトパン」の結婚相手が「ロピア」の御曹司だったというのは面白かった。女子アナウンサーのトップ「カトパン」と、激安スーパー「ロピア」の御曹司が結婚するというのは、今の格差社会を実によく現している。また、「カトパン」と「ロピア」という間の抜けた音韻が、今の世の中の馬鹿らしさを現している。「女子アナ」と「激安スーパー」の組み合わせも素晴らしい。
 
 他にも、出版社が一編集者を「天才」として売り出そうと苦心してたのも可笑しかった。編集者は作家を売り出すのが仕事だろう。もっと言えば、作品を世に出すのが仕事のはずだ。それが作家も作品もふっとばして、編集者自体を売り出すのだから、わけがわからない。末期症状と感じた次第である。
 
 色々な内輪性が、様々なものの末期性を示している。最も、ここまで色々なものが腐ってしまえば、腐敗というものがはっきりしてわかりやすい。
 
 私は現代はローマ帝国の腐敗によく似ていると思う。力と金の世界が腐っていく過程である。その先頭を切るのはアメリカだ。アメリカの滅亡はローマの滅亡を思わせる。
 
 腐敗というのは、言葉だけ取れば悪いものであるが、懐に金を入れる側からすれば善である。我々の目の前にゴミの堆積がある。三流の人間を担ぎ上げる四流の人間が溢れている。だが、三流の人間を担ぎ上げても、自分自身が潤うなら、自己欺瞞は許されるのではないか、というのが我々が内心に抱える問いである。世界の趨勢には逆らえない。世界は流れるように流れていく、という事が、世界の滅亡を促していく。世界の滅亡はマッチョな破壊者が行うのではない。そうではなく、それを行うのは凡庸な利己主義者なのだ。誰しもが流れに従うので、滅びるものは滅びていく。
 
 若い女の子が「金持ちと結婚したい」というのも素朴な夢と見えるかもしれないが、金持ちの倫理そのものはどうなっているか。それは問題になっていない。そもそも経済に倫理は入っていない。金には色は付いていない。
 
 現代人が期待する色々なビジネスリーダーや、新しい技術は、世界を変えたりはしない。むしろ世界の構造を強化する。我々は健康で、安楽で、幸福な奴隷となっていく。だが、奴隷を鞭打つ奴隷は果たして王なのか。それは何なのか。欠けているのは人格と人間であろう。
 
 中国の歴史を調べていると、皇帝が異常な横暴を奮っているのがわかる。どうして民衆は皇帝に反抗しないか。反抗して、民主政を確立し、自分達の利益となるような社会を作らないのか。それが疑問だったが、現代の我々が落ち込んでいく過程はむしろ、皇帝の暴虐を許容する方向に向かっていると言える。反抗するよりも屈従する方が楽である。皇帝に逆らうよりも、皇帝に媚びる方が楽だ。皇帝に逆らうのは、次なる皇帝だけであり、頭が変わっても全体の構造は変わらない。
 
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 テレビの話を再びするが、テレビではクイズ番組が大流行である。クイズは反射的な知識の能力だけを問う。現代に欠けているのは「考える」という事なのだが、社会の本音は「考える」人間などいらないという事である。奴隷に考える必要があるだろうか? 仕事を速やかに覚えて、速やかに言われた事をする人間。必要とされているのはそうした人間であり、クイズ的な人間である。それが優秀さであり、考えるという事、またそれに伴う「創造」の作用は必要ない。
 
 「ドラゴン桜」というドラマが先日、高視聴率を取った。東大を目指す学生を熱血指導する話だ。
 
 東大という「最高学府」は凋落が甚だしい。しかし、東大が駄目になっていく過程と、東大が人気になる過程とは一致しているように見える。テレビでは東大卒の人間がしょっちゅう出てくる。「東大王」というクイズ番組もある。
 
 東大も以前には内容があり、内実があったが、今は有名無実になってきている。残るのはブランド名だけであり、ステレオタイプに世界を見る庶民には、ブランドというのは都合がいい。「ドラゴン桜」は、東大に入る為のノウハウを教えるが、学問の本質に触れる事は決してない。
 
 全てがノウハウに還元され、筋トレをして、能率やら生産性を上げられる泥人形らが、現代の理想的人間像である。それならば機械が代替しても全く問題はない。人間に機械が近づいているよりも、機械に人間が近づいている。
 
 受験勉強の延長に学問があるわけではない。世界の現実は、答えが出ているわけではない。人は、ゲームには一番いい攻略法があるように、試験には正答があるように、あらゆる事に答えがあると考えてみる。文章力なるものを鍛えれば、ノーベル文学賞が貰えると言う。世界を測る物差しを人々は持っている、と自惚れるが、その物差しは世界そのものによって測られていく。それらは、ただ自分達の内輪的世界のみに通用する冗談だったといずれ明かされるだろう。
  
 嘘を言うのは止めよう。テレビを見ていたら、声優になろうとしている若者がオーディションに落ちる様を放映していた。審査していた人間が、声優志望に「君には表現者としての輝きがない」という風な事を言っていた。若者は半泣きで、うなずいていた。
 
 私は、これは嘘であると思う。必要なのは「表現者としての輝き」ではない。表現者としての実力ですらない。実力だと思うから間違うのだ。必要とされているのは、商品としての利用価値でしかない。求められているのはそれだけだ。
 
 「表現者としての輝き」というのは、声優志望の顔が「イケメン」だったり、声優志望の女の子の胸がでかかったり、童顔だったり、キャラが立っていたりする事を意味するのだろうか? 答えはイエスで、求められているのは商品としての利用価値以外のなにものでもない。それを「表現者云々」と言うから、現在がゴミの堆積でしかないにも関わらず、そこに「夢も希望」もあるような気がするのだ。
 
 全ては嘘っぱちである。だが、全てが嘘ならば、自分から虚飾に落ち込んで生きるのも手だろう。明石家さんまとか、タモリあたりはそのあたりに若干気づいている節がある。だが、私は彼らを肯定しない。しかし、それより下のレベルに関しては興味もない。
 
 ネットはテレビに変わるものでもなく、テレビ的なものの延長でしかない。有名ユーチューバーは、他の有名ユーチューバーとコラボしたがる。金持ちは他の金持ちと繋がりたがる。それは自然な流れである。この流れは留めようがない。無名から身を起こすのは辛い事柄となると、最初から持つ者に媚びていく発想が主流になる。それは別に間違っていない。
 
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 こんな例を一々挙げていたら切りがないので、もう終わりにする。
 
 私はナイーヴにも、この社会では、真に実力のあるものは、いずれきちんと評価されるという幻想を抱いていた。だがそれは間違いだった。
 
 しかしその考えは、遠目に見たら間違っていない。屈従に甘んじ、「史記」を書いた司馬遷は、知己を未来に託した。自分の理解者を歴史に求めたのである。
 
 結局、本物を求めるのならそうした態度しかないだろう。近似的には馬鹿である人間も経験に学ばざるを得ない。「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」 確かにそうだが、経験は長いスパンで見れば歴史に繋がっていく。経験に学びながら、愚者は自らが愚者であると知っていく。愚者の時代は、他の時代との比較の中で自分達の時代が愚かだと自認せざるを得ないようになる。
 
 現代の格差社会はこれからますます開いていき、これからもっと馬鹿馬鹿しい事柄が溢れ出てくるだろうが、それによって見えてくるものもあるだろう。腐れ縁を切れずにいた人間も、ついに縁を切る時が来るだろう。捨ててはじめて得られるものもある。文明の終末期には、一編の詩が必要となるだろう。それは過去を振り返り、その終末を祝ぐ詩であるだろう。そんな気がする。世界の滅亡は、また新しい相貌を開いてくだろう。現代は奈落に落ち込んでいっているが、それを感じるものだけが、それを相対化するのを可能とするだろう。私はそんな風に思う。
 
 

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