「作家は経験した事しか書けない」について
「作家は経験した事しか書けないかどうか」というのが話題になっていたと知りました。またそれに関連する話も少し見ました。
まあ、世の人というのはくだらない事についてあれこれ言うのが好きだなあ…という以上の感想はないのですが、そういう事に言及したければまっとうな芸術論に当たればいいと思います。それだけの事だと思いますが、それだけの事がやりたくないので、世間的な通念で難解な問題を割り切りたいというのが大衆的欲望なのだろうと思います。いつの日にか、凄まじく単純な概念であらゆる難解なものを割り切れる日が来るでしょう。例えば、売上によって作品の価値は決まるとか。まあ、そんな事はずっとやられてきましたが、その反対の側に運動する人も少数いました。本居宣長や小林秀雄なんかはその少数の人でしょう。
「作家は経験した事しか書けないかどうか」というのは考えるに馬鹿馬鹿しい事ですが、ここでわざわざ取り上げたのは、少し前にこうした事と関連したある事態について考えていたからです。今から、その事例をあげて、また若干の考察を付け加えて、この文章は終わろうと思います。
私が考えていたのは、島尾敏雄と夏目漱石の違いについてでした。その時は「作家は経験した事しか書けない」とかそういう事は考えていなかった。ただ後から考えると、関連性があると思いました。
島尾敏雄と漱石を頭の中で比べていたのは、ふたりとも不倫小説・三角関係を描いた作家だからです。ふたりとも優れた作家です。特に漱石は三角関係に関しては日本トップの、偉大な作品を残したのは言うまでもないでしょう。
私が考えていたのは、吉本隆明の言及でした。吉本は島尾敏雄を評価していて、彼の「死の棘」を高く評価しています。これは私小説的な内容で、島尾敏雄は実際に不倫をして家庭が壊れかかった経験があるのですが、これが深刻に描かれています。しかし、吉本は、島尾を高く評価しつつ、島尾が三角関係を徹底的に描いていないと感じていました。
ではどのあたりが徹底的ではなかったのでしょうか。三角関係というのは三人の人間の関わり、葛藤が問題になるのですが、島尾の小説だと、不倫した男(本人)と妻との仲についてはきちんと描かれているのですが、不倫相手の女についての描写は薄い。この点を吉本は島尾に対談で問いただしていたと思います。
テキストがないのでうろ覚えですが、その時に、島尾が答えていたのは、もし徹底的に描いていたら、本当に家庭が壊れて自殺しかねない、そういう実人生が破壊される恐れもあるから書ききるのは難しい、そのように答えていたと思います。
島尾の発言は正直なものだと私は思います。想像してみればよくわかる。不倫関係を徹底的に描くにしても、自分が実際にしてしまった事です。奥さんとは別れたわけでもないし、子供もそのままで、不倫相手と別れてから、不倫の経験について書く。つまり実際に起こった事について書くわけですが、もし徹底的に描いたら、今の妻との関係もまた危うくなりかねない。今の妻とはなんとか関係を存続させているのに、昔の女に対する愛情ある描写などは書けないでしょう。
つまり、ここでは実際に経験した事を書くという事実が、作家としての島尾敏雄の足を引っ張ったという事です。私はこれの対極として、漱石を思い出したのでした。
漱石はあれだけ三角関係の小説を描いたのに実生活においては、不倫しませんでした。最も研究者によって、漱石がほのかに恋心を抱いていた人妻が特定されています。しかし、これなどは漱石が三角関係の小説を描いたから、逆に実生活にも三角関係があったに違いない、そういう目でもって見られたから発見された恋心です。自分の妻以外の女、自分の夫以外の男にほのかに恋心を抱く事くらいは誰でもある事ではないかと思います。全く心が揺らがないというのは難しいと私は思います。
しかし漱石は不倫しませんでした。私は「しなかった」の方がここでは重要だと思います。何故漱石は不倫しなかったのか。そうして、何故、漱石は島尾敏雄以上にその関係を徹底的に描く事ができたのか。この文章の文脈で考えるのであれば、漱石は不倫しなかったからこそ、不倫というものを、その宿命を徹底的に描く事ができたのです。もし、彼が不倫していたら、彼のフィクションは現実生活に飲み込まれて、我々が今読むような安定した形式を保つのは無理だったでしょう。
読者を混乱させる為に、他の例も考えてみましょう。私は世の人間の通念というものが、単純な概念で世界を割り切ろうとするものだとわかっているつもりです。例えば「想像力VS経験」というのもそれです。果たして「想像力」とか「経験」とかいうのは既知の、わかりきった事なのか。経験一つを語るにしても、哲学の難解な探索が必要になってきますが、そういう道には通俗性というものは入ったりしない。哲学者も文学者も、人々がスタート地点だと思っている所を逆に戻る事によって進歩するのではないか。そう思う事が度々あります。
カート・ヴォネガットに「タイタンの妖女」という小説があります。人気作です。私はこの作品を読んでいた時「ああ、これは反戦作品だ」と感じました。これは唯一にして、根源的な反戦作品だ、と感じました。しかし、あの作品を読んだ人は「反戦」的な要素なんてない、と反論するのではないかと思います。私はここにヴォネガットの独創性と経験の解釈があると感じます。
私がそう感じたのは、火星人が次々に虐殺されるシーンを読んだ時です。その時に「これは戦争の悲惨さ」を描いている、と感じました。ヴォネガットは戦争経験者、それもドレスデン爆撃という徹底的な破壊を経験した人です。彼はそれを彼らしい、皮肉とユーモアと悲しみで受け止めました。戦争を通じて経験した、人間の行為、人間の無意味さを彼は彼の認識で捉えようとした。
「タイタンの妖女」は直接、経験を吐露した作品ではありませんが、ヴォネガットが戦争の経験を消化し、解釈しなければ決して生まれなかった作品とは言えるでしょう。では、この時、ヴォネガットは経験を書いたのか、想像力で書いたのか。そんな事を問うのは無意味でしょう。更に言えば、想像力は無限でもないし、経験に全くイマジネーションが入ってないわけでもない。想像力か経験かという対立そのものが安易な通俗概念だと思います。
アリストテレスは既に、歴史は事実を描くが文学は真実を描くから文学の方が優れている、と言っています。これは私なりの要約ですが、アリストテレスが言わんとしている事を考えるだけでも、想像とか経験とかの通俗概念では割り切れぬものを含んでいる。こうした事は私にはわかりきった事だと思われますが、しかし人は自分達のわかりきっているという概念を捨てきれぬので、絶えず矛盾と混沌に満ちた世界をなんとか割り切ろうとします。ネットに溢れる通俗議論はみなそういうものでしょう。
そこで絶えず大衆は世界に対して勝利し続けるのですが、いつも世界は矛盾に満ちており、割り切れぬものがあって釈然としません。人が認識そのものを認識しようとしなければ、いつまで絶ってもステレオタイプな概念で様々なものを裁いて終わりという事になるでしょう。その内、この文章も通俗概念でお手軽に裁くようになるでしょう。ヤマダヒフミは左翼だとか右翼だとか言ってればそれで満足なのです。そういう人達は、議論の上では数の力で勝つでしょうが、現実には勝てません。現実は常に彼岸にとどまり続ける事になります。そうして、そうした現実に自らの認識で立ち向かっていた作家が優れた作家になるのだと思います。
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