「流行り物」という宗教

 映画『すずめの戸締まり』はヒットしているようだ。私はこの作品の公開前から、やたらと広告が打たれ、また、やたら企業とタイアップしているやり方に何か過剰なものを感じてきた。

 映画が公開されると、実際に、ヒットしていると言う。このヒットは、口コミで徐々に人気が広がるというようなものではなく、最初からヒットが予定されて、実際にヒットしたといような形になっている。私はここに現在の気味悪さを感じる。

 新海誠の作品自体は『君の名は。』を見て、もう新海作品は見たくないと思ったのでこれからも見ないだろう。新海誠のやりたい事もわかったし、新海誠が私の予想を越える事もないだろうから、作品そのものを詳しく批評する必要はないと思っている。

 それにしても、「流行り物に乗っかる」というのもここまで来ると、もはや一つの「宗教」と言っていいのではないか。それは「みんながいいと思っているものを自分もいいと思う」という、そういう感情に支えられている。「みんな」と「私」が同一化する事が現代人の宗教となってきている。それを可能にしたのは、インターネットのようなテクノロジーだ。このテクノロジーは、人々をリアルタイムで結合するのに長けている。こうして人々は自分は孤独ではなく、他者と繋がっているという安心感を得る。

 『すずめの戸締まり』がヒットを期待されて、そのままヒットするというのは、作品の内容自体を人々はそこまで気にしていない事を意味するだろう。無論、あまりに酷いクオリティだったら批判も起こるだろうが、ある程度以上の水準なら、騒ぐ分には過不足ない。その点、新海誠のアニメはクオリティが高いので安心できると言える。

 『すずめの戸締まり』がヒットしているという事実は、私には次のような事柄の証明に思われる。人々はこの社会で不安である。孤独である。その不安を解消する為に、人々は、熱狂したり、騒いで、同一化できるような対象を探し求める。その対象として例えば『君の名は。』のような作品が選ばれたりする。

 要するに、ある作品とか、またはワールドカップのようなもの、タレントのスキャンダル等々は、人々が熱狂したり、論評したり、騒いだりする為の媒体でしかない。それらの内容が問題ではなく、自分達が騒いだり、泣いてみたりする為に、媒体としての作品を必要とするに過ぎない。

 よく「泣ける作品を教えてください」という人がいる。泣きたければ勝手に泣けばいいんじゃないか、と私などは思うのだが、彼らは自分が気持ちよく「泣ける」為に作品を利用するのであって、作品そのものの内容や、作品そのものに込められたテーマなどはほとんど興味がない。彼らはそれほどまでにも自分本位だ。

 しかし自分本位な人々は大衆という形で固まっているので自分本位と糾弾される事はない。かえって、大衆から離れる人間が「自分本位」と非難される。「あなたはごちゃごちゃ言うけど、私達は楽しんでるんだから、邪魔しないで!」というわけだ。そうして自分達の「楽しみ」を客観的に反省する時はいつまでもやってこない。彼らは集団で固まり、互いを認証し合う事によって、自己が自己に向かい合う反省を何とか回避しようとする。

 ある作品がヒットするという事は、その作品を媒体に人々が同一化する契機を得たという事にすぎない。言ってみれば、ヒット作というのは、大衆をなだめたり、大衆のガス抜きの為に捧げられた仔羊である。人々はそれら仔羊を屠ってはゴミ箱に捨て、わずかに安心を得るが、すぐに不安になって次のヒット作を欲しがる。

 重要なのは作品の内容ではなく、作品が媒体として機能するという事だ。人々は不安で、空間的に凝縮して結合したがる。この根源的な不安はどこから来るかと言えば、宗教を含んだ垂直的な価値観が全て排除され、全ては唯物論や功利主義で規定されてしまった為に、全ての人生に意味がなくなった為だ。生きる事にも死ぬ事にも意味がないという不安を忘れる為に、一つの価値観に積極的に染まって、自分も人々から遅れていないと安心する。

 この宗教の特徴はリアルタイム性であり、空間の消去、過程の消去である。その本質は瞬間というものを永遠に仕立てようという事にある。瞬間の中に入り込み、その中の空間を全世界に広げ、それを永遠として定立する事。その為には定期的にヒット作が輩出される必要がある。それほど大した作品でなくても、大衆という怪物をなだめる為に、それは必要とされるのだ。

 こうした宗教が今は常態化している。さっき、「プロのライター」が『すずめの戸締まり』を絶賛したレビューを見たが、もちろん、プロのライターはこの宗教を肯定する方向に動かなければならない。そうでなければ食いっぱぐれるし、人々の進む方向と一致していなければ、そのルートから自分も外されてしまう。

 それにしても一言言っておきたいが、『すずめの戸締まり』はどうやら人々に「希望」を与える作品らしい。

 「新海誠監督は約20年にわたり、アニメ映画制作を通して、混迷の日々を生きる私たち観客に「大丈夫だよ」と伝え続けてきた。」
 (松本侃士「私たちは、光の中で生きていく。映画『すずめの戸締まり』が示した絶対的肯定について。」より)

 肯定というものは一般的に良い事だと思われているか、これには裏面がある。当然の事だが、全ての物事には裏面がある。

 ドストエフスキーは『作家の日記』で、当時流行っていた西欧思想にこんな注釈をつけていた。

 「君は君のスローガンを掲げて公民的団結に向かって進み給え。自由、平等、友愛。よろしい。だが君はもう一つのスローガンを同時に掲げている事を忘れるな。しからずんば死。」

 人々に希望を与える事は素晴らしい事に違いない。人々に肯定を与えるのは素晴らしい事なのだろう。しかし、その肯定は逆の事柄も暗に含んでいる。その肯定から漏れた人間に対する排除である。災害から心を癒やした、前向きな人々がいたとして、それでは心を癒やせなかった人間はどうすればいいか。どうしようもない。彼らは、逆向きの通達を食らっているのである。

 「私達は君に希望を与えようとしてきた。多くの人に希望を与え、前向きな気持にさせた。それなのに君は未だに過去の心の傷に囚われているのか? それならば君には生きる資格はない。私達の『肯定』から漏れた人間は『否定』されても仕方ない。私達は努力してきた。前向きになれるように、心健やかになれるように。だが、君はそうなれなかった。それならーーやむを得ない。私は言わなければならない。君はこの世界に必要ない。君はこの世界の不適合者だ。君にはこの世界から去ってもらおう」

 新海誠は確かに人々に「大丈夫だよ」と伝え続けてきたのかもしれない。そしてその「大丈夫だよ」は大ヒットしている。それでは「大丈夫」から漏れた人はどうなるのだろうか? 彼らに対する「大丈夫」はこの世にあり得るのだろうか?

 …そこに明確な答えはない。哲学者のシェストフが強調したように、溝に落ちて、もう救いようのない人間、立ち上がれない人間というのは、密かに死んでいくしかないのだ。人々は溝に落ちた人間を上から見下ろして「かわいそうに」と言う。だが彼らは同情するだけで、すぐに立ち去っていく。落ちた人間は、今やっと、自分自身が何であったかに気づく。これまで自分も他人と一緒に、落ち込んだ人間を見下ろしていたが、自分も「落ちた側の人間」だったのだ、とやっと気づく。

 この実存に対する解決は、この文章では置いておくとしても、言っておきたいのは、肯定の物語というのは裏に否定の物語も含み込んでいるという事だ。希望を謳う事が結局は「勝ち組に乗っかる」事にしかならない事、みんなと価値観を分かち合う事が、自分を捨て去り人々に合流する事しか意味しない事、それらは偶然ではない。そうした事は肯定の裏側の物語として起こらなければならない事なのだ。

 肯定・善意・集塊の流れは、背後に大きな暴力性を潜在させており、それはそう遠くない内に破裂するだろう。人々が涙を流しながら、平和と愛の価値にむせび泣き、抱擁しあった次の瞬間には、人々は互いに分裂し、互いを殺し合うだろう。ドストエフスキーは丁度、そういう事を予言していた。以下に引用するのは、「君は君のスローガンを掲げて~」に続く文章だ。

 「ヨーロッパは、外的現象に救いを求める人々に満ちている。道徳の根本の基礎が、もう崩壊しているのだから、社会的理想に関する抽象的公式が、幾つも叫ばれれば叫ばれるほど、事態は悪化するのだ。一世紀も経たぬうちに、彼らはもう二十回も憲法を変え、十回近くも革命を起こしたではないか。総決算の時は必ず来る、誰も想像できないような大戦争が起こるであろう。私は断言してはばからないが、それはもうすぐ扉の外まで迫っている。」

 (注:この文章は十九世紀後半に書かれた)

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