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ヒカキンの謝罪に見る「事実はどうでもいい社会」

 最近、ビンチョル・ハンという哲学者の本を読んでいます。非常に面白いです。
 
 ビンチョル・ハンに「情報支配社会」という本があります。「情報」が支配している現在の社会のディストピアっぷりについて書いた本ですが、色々と勉強になりました。
 
 「情報支配社会」の中に書いてある内の一つとして「事実はどうでもいい」という事があります。もはや、事実はどうでもいい、嘘か事実かという区別がなくなっている、そういうネット社会の本質を指摘していました。
 
 今さっき、ユーチューバーのヒカキンが謝罪したというネットニュースを見ました。これなどは、「事実はどうでもいい社会」の典型だと思うので、これを例にして少し考えみようと思います。
 
 ヒカキンという人は人気のユーチューバーです。彼が何故謝罪したかと言うと、「ヒカキンが二股をかけていた」とヒカキンとかつて交際していた女性が週刊誌に暴露した為だそうです。
 
 私は東洋経済オンラインの「ヒカキン、文春砲に「シロでも謝罪の」大きな違和感」という記事を見ているのですが、その記事によると、実際には二股ではなかったようです。女性の側が、以前付き合っていて、ヒカキンとは別れたにも関わらず、その後で二股であるかのような発言をしたというのが真実なようです。
 
 ですが、この件に対してヒカキンは謝罪をしたようです。考えてみれば、二股は事実ではなかったのだから、謝罪する必要もないと思いますが、謝罪したそうです。それと、誰に向かっての謝罪なのかというのも、考えてみれば不思議です。動画で謝罪しているようですが、どうして動画にする必要があるのでしょうか。というのは、謝罪したいのであれば、相手の女性に謝罪すればいいだけだからです(連絡先がわからないから動画で謝罪したという可能性も考えられますが、この場合は違うと思います)。
 
 ビンチョル・ハンの言う事が正しいな、と思うのは、ヒカキンが二股したかどうかという「事実」はもはや視聴者にはどうでもいい事だからです。だから、「ヒカキンの謝罪は偉い」というような意見があるのでしょう。
 
 ヒカキンが二股をしたかどうかという事実は視聴者には一切、どうでもいいのでしょう。視聴者にとっては「ヒカキン」という、画面の上に出回っているイメージだけが問題であり、そのイメージを汚すようなスキャンダルは良くない、という事なのではないでしょうか。
 
 だから、そういうイメージを汚すような事があると、それが事実であるかはどうかは関係なく、視聴者は謝罪を要求し、ヒカキンもそれを先読みして、謝罪する。それも、相手の女性に対してではなく、視聴者に対して(動画というのは視聴者へのアピールでしょう)。というのは、週刊誌の報道はヒカキンのイメージを崩しかねないものだから、です。
 
 流布されているのは現実のヒカキンではなく、画面上に映るイメージとしてのヒカキンです。だから、週刊誌の報道も真偽は関係なく、ヒカキンのイメージを損なうものとして捉えられているのではないでしょうか。
 
 それが私の読みですが、こう考えると、事実かどうかは全くどうでもいい社会というのが浸透しているな、と改めて思います。ビンチョル・ハンの言う通りだと思います。
 
 松本人志のスキャンダルの件にしても、事実かどうかわかる前に、松本人志は番組を降板してしまいました。ここでも事実はどうでも良く、スキャンダルが「松本人志」というイメージを汚したので、視聴者はその代償を求めたのではないかと思います。
 
 ヒカキンが謝罪するというのは、事実をベースに考えれば意味不明ですし、ヒカキンの謝罪に「見事な火消し」と称賛するというのも意味不明ですが、彼らはもはや全く事実を考慮していないと考えれば納得できます。
 
 ビンチョル・ハンの言うように、この世界はもはや事実というのはどうでもいいものになっているのだと思います。存在するのは「ヒカキン」というイメージ体だけ。だから、事実無根の事件でもヒカキンは、それがイメージ上ではあたかも存在したかのように、謝罪するのだと思いますし、それをまた視聴者は拍手で迎えるのでしょう。
 
 このように事実がどうでもいい社会、ネット社会において、陰謀論がはびこるのも当然なのでしょう。ネット上でイメージがドラッグのように氾濫していると思います。まあ、夢を現実にする装置がテクノロジーだとすると、もはや人々が現実を忘れるのも無理はないと言えるかも知れません。
 
 このようなイメージだけが氾濫し、事実はどうでもいい社会というのはこの先、どうなるのでしょうか。ヒカキンがいち早く、謝罪したという事実が、ヒカキンが、「事実などどうでもいい」と理解しているという証左になると思います。またそういうヒカキンを絶賛する人々が多数いるというのも、彼らは事実はどうでもいい、という世界に入り込んでいる証左になるでしょう。
 
 おそらくこうした人々は増えていき、自分達の主観だけが存在する、他者のない世界が拡大していくだろうと思います。とはいえ、捨てられた事実は世界のどこかに存在しているので、それは何らかの形で我々を復讐するのではないか、と私には思えてなりません。そしてその事実が復讐してきた時、我々はそれをもうイメージの中に還元する事はできないので(人々はそれを望まないので)、ただ孤独に打ち震えて、悲しむ事になると思います。
 
 悲しむ事、涙を流す事、孤独である事、死ぬ事。これらの"事実"はもはや世界の"外"でないと行われないのではないか。あるいはそういうものがあったとしても、それはすぐに人々へのそうしたアピールへと転化されてしまう。

 真に悲しむ事、涙を流す事、死ぬ事。これらの事実はもはや世界の外でしか行われないようになるのではないか。そして死とはこの世界においてはイメージの外側に出ていく事、テレビから退場したタレントのように、ただその存在が消失する事。そういう事になっていくのではないでしょうか。

 そうなると、死は現実の出来事ではなく、ただ舞台上からの消失を意味するものとなり、その消失すらイメージの上からは消されてしまうだろうと思います。しかし死ぬ事ができない社会であるのなら、人々ははじめから"生きて"いたのだろうか?と、私は不思議に感じてしまいます。

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