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直向きに取り組んできた彼女達が教えてくれたこと

サッカー部のTRMが終わる。不用意なボールロストやトランジションの遅さ、なかなか上手くはいかない。1ヶ月を切った公式戦に向けて負けたくない気持ちばかりが先行してしまって、ゲーム中ピッチに響くのは自分の修正の声ばかり。TRMとはいえそこにあるのは「勝ちに行く」声なのだ。トータルでゲームは勝ったけれど、選手は笑顔で帰っていったけれど、本当にこれで良いのかな?と思う。

U9も部活動もそうだけれど、そこにはチームを指揮する者としてこうあって欲しいという理想が入る。チームを指揮する者にはその大きさに差異はあれど理想を掲げるのは当然のことだろう。プロを輩出しようとかいう大そうな野望は持っていないのだけれど、サッカーは上手い方が幸せだろうと決め込んで多くを求めるピッチに響くその声は果たして彼らの耳に入っているのだろうか?入っていたとしたらそれは心まで届いているのだろうか?

サッカー部のTRMの終わり時間は女子バレー部の本日の最後のゲームの始まりと重なる。日々の日記の中で「サーブが入るようになりました」「レシーブの調子が良いです!」と教えてくれる彼女達がぜひ見て欲しいと声を掛けてくれたのでお邪魔をした最終ゲーム。実は去年は自分が顧問をしていた部活である。去年を振り返ると、バレーボール経験者はゼロでお世辞にも上手とは言えない子ども達だった。全然バレーにならなくて、小学3年生に負けたこともあった。サーブが入らなければ中学生が小学生に負けることだってあるんだとちょっと衝撃だった。ただ今日受けた衝撃はそれとはまた類いの違うものだった。

あの子達が普通にバレーボールをしているのだ。難しいサーブもレシーブして、スパイクでつないでいる。きれいなトスまで上げて、バレーボールをしているのだ。涙が出そうになった。体育館に足を運ばなくなった半年間に予想を大幅に上回る成長をしている姿が心の底から嬉しかった。「めちゃくちゃ上手くなったんだね!」と伝えたくてたまらなかった。「かっこよかったでしょ?」に返す「まぁ俺の次ぐらいに?」は我ながらめちゃくちゃ良い顔をしていたと思う。その後もすぐに職員室に戻って「めちゃくちゃ上手くなってたんすよ!」とこの衝撃を誰かに伝えたくていつも以上にお喋りだったのは、直向きに取り組んでいればいつか上手くなる、たった20分そこらのゲームが今後の自分の指導者としての在り方を変えてくれるぐらいには衝撃だったことを物語っている。

僕が今日出逢った言葉にならない衝撃を学びとし、無理やり言葉にしようとするのなら、「上手くなるのは今じゃないかもしれないからいつか花開く時のためにずっと直向きに取り組める気持ちを絶やさないようにしてあげたい」ってとこか。「好きで始めたサッカーをいつまでも始めた時の気持ちでいてもらうために邪魔をしない程度に刺激していく」ぐらいのものか。はたまた「悔しくて上手くいかなくて試合に出れなくて嫌いになっても、底の部分では嫌いになるわけないものであって欲しいと願うこと」か。そういう言葉にするのがちょっと難しいことを一括りに衝撃としてレシーブしたのだ。

僕ら学校の先生は指導の落とし所として「いつか来るであろう幸せな未来のために今苦労をしなければいけない」という思考を持つことがある。将来幸せになりたいのであれば今我慢しなければいけない、辛いことをするのは明るい未来のためだという具合だ。僕もそう言われて育ってきたし、日本人なら誰しも植え付けられてきたマインドなんだと思う。

でも本当にそうだろうか?

「今が幸せか?」と聞いてくれる先生はいただろうか?幸せな未来のために、今幸せか?と問うてくれる人はいただろうか?直向きに取り組む彼女達は上手くなる未来のためにずっと辛い思いだけをしてきたのか?そうじゃない、そうじゃないだろう?

今日僕が食らった衝撃は彼女達が見せたプロセスの強さのためか、はたまた体育館に入った瞬間頭にぶつかったサーブのためか、よくわからないけど今まだクラクラしている。



















僕がピッチに響かすその声は彼らの今の幸せを願っているか?

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