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子供の頃の思い出 ①

ワタシが生まれたのは、両側を二メートルほどの壁に隔たれた、周囲から隔絶された通りにある、小さな町だった。町っていうのか、コミュニティっていうのか、正直、微妙なところだが、短い二百メートル程の通りにはお風呂屋さんや、やたらなんでも売ってる立ち飲み屋、ホルモン焼き屋や、タバコ屋や商店もあったので町というべきか。

通り沿いには横並びに、一戸建てやアパートや長屋が建ち並んでおり、ワタシ達家族が暮したのは、その中程にあった祖父宅の二階だった。祖父宅は二階部分を二部屋のアパートとして貸しており、ワタシ達家族以外に、美人のシングルマザーと男の子の兄弟が暮していた。

通りには祖父母の様に戦後、沖縄から移住して来た人達や、県外から移住して来た人達の他に、韓国人も居た。小さなコミュニティであったため、近所付き合いがやたらめったら盛んで、通りに暮らす人はみんな、誰がどこの家の人間だというのを把握しており、知らない顔は居なかった。安心な反面、閉鎖的とも言える。

ワタシ一人で歩いてると、開けっぱなしの玄関先から「ハナコ(ワタシの名前)!何してんの?」とか「ハナコ!ちょっとこっちおいで」(呼んだ割に用事はない)とか、声を掛けられることもしばしばだった。近所の大人はみんな、他所の家の子でも呼び捨てなのだ。

そんな住民同士が親密な地域であるため、平成に近い昭和生まれのワタシなのに、ふつーに「お醤油借りて来て!」とか「お砂糖借りて来て!」と言われる事があったし「お塩貸して」と近所の人が訪ねてくることも、マジであった。しつこい様だけど、ワタシは平成に近い昭和生まれだ。

昔はスーパーも六時くらいに閉まったし、コンビニも近くになかったので、無いことに気付いた時には時すでに遅しということだったんだろう。それでも、今の場所に移ってからは、そういう事は一切なくなったので、きっとあの当時でも珍しかったと思う。

とにかく良くも悪くも下町っぽく、田舎っぽい。そして何より昭和レトロだ。

因みに大阪市内だし、地下鉄の駅もあるし、市バスも走りまくっていて、なんば までは地下鉄で二十分もかからない結構な都会だ。

住民同士の繋がりが昭和レトロなのは、風土的なものがあったのだろうが、未だに不思議なのは紙芝居だ。月に一度、自転車の後ろにミルク煎餅やタコ煎の入った木箱を積んだ、紙芝居屋さんのおじいちゃんが来たのだ。

通りの一歩外に出た場所に住んでた同級生に、紙芝居を見たことがあるか?と聞くと、誰もが見たことない。と答える。何故か紙芝居屋さんのおじいちゃんは、近辺だとその通りにしかこなかった様だ。

笛を吹きながら通りを走って来るので、子供らはみんな自転車を走って追いかけた。テレビもラジオもあって、娯楽に困ってるわけでもないのに、戦後かよ。と突っ込みたくなるほど、みんな必死だった。

ワタシはサメ少女の絵の不気味さに「おえっ」となりながら、ミルク煎餅を食べたという、この年齢だと貴重な経験をした気がする。他にも黄金バットや赤影など、平成よりの昭和生まれとは思えない作品を、おじいちゃんの浪曲師の様な語り口調で見聞きしている。ねっちょりだみ声で読み上げられると、それが絵と相まって不気味さ倍増だった。

何年か前、フリーマーケットに行った際、若いお兄さんが紙芝居をやってるのを見たが、浪曲師の様な語り口でもなかったし、絵も全然不気味じゃなかった。年季の差だろうか。

おえっとさせられても、楽しみにしていたワタシは窓を開けて、笛の音が聞こえて来るのを待っていたのだが、ある日それがいつまで待っても聞こえて来ない事に気づいた。あれ?遅いな。と思っていたが、笛の音は待てど暮らせど、聞こえて来る事はなかった。おじいちゃんだったので、廃業したのかも知れない。

余談になるが、紙芝居の始まる前に、お菓子が販売される。先に書いた通り、ミルク煎餅とタコ煎だったのだが、タコ煎は数量限定だった為、足の早い年上の子らがいつも独占していた。ソースを塗ったタコ煎の上に、水でびちゃびちゃの素麺(ワタシはずっと素麺だと思ってる)を乗せていた。後にも先にも、そういう食べ方を見た事はないので、素麺だったかどうか分からないのだが、男の子らはそれを美味しそうに食べていた。ワタシはいつもそれを羨ましく思っていた。時々、ドンキホーテでタコ煎を買う事があるのだが、未だにその食べ方にチャレンジした事がない。果たして美味しいのだろうか?気が向いたらやってみようと思う。











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