見出し画像

エリック・クラプトンと鮨と叔父のこと

遠い記憶の中で、初めて鮨を食べたのは確か小学生高学年の頃だったと思う。
東急田園都市線の江田駅に住んでいた叔父のところに遊びに行って、連れていかれた地元の鮨屋だったはず。
なぜ小学生だったのを覚えているかというと、叔父にもらった小遣いで、発売したばかりのエリック・クラプトンの『unplugged』のCDを買ってもらったことを覚えているからだ。

叔父夫婦には子どもがおらず、大層私を可愛がってくれた。
私も、妹よりも私を贔屓にしてくれる叔父のことが好きだったのと、小遣い目当てにしょっちゅう遊びに行った。
叔父は酔っぱらうと子供には難しいことを哲学者よろしく語るのが常で、私はそれをフンフン相槌を打って聞いていれば、帰りには時間給がいただけるという寸法だった。

その日は寒い日だった気がする。
いや、まだ開発途上だった江田の土地が寒々しかったのかもしれない。
比較的新しい鮨屋に入り、叔父はビールとつまみを頼む。
私はイクラの軍艦を食べていたのを覚えている。
初めて食べた山葵に「オエッ」となった。
味が理解できず、山葵の入っていないものを好んで選んだ結果、イクラの軍艦ばかりになっていたんだと思う。

叔父は洒落者だった。
自宅にはカウンターバーを作り、車体は角ばっているがテールランプは丸い白いスカイライン、オメガのシーマスター(形見分けしてらもって今も使っている。叔父が手に入れてから70年以上経つけど、まだまだ現役だ)、梟のグッズをコレクションし、現像機を持ち、トイレには外国人ポルノ女優のカレンダー。
個人で輸入業を営み、アメリカとドイツと陶磁器や写真のフィルムを売ったり買ったりし、様々な種類の形のライターを持っていた。
タバコはソフトのセブンスターだったような気がする。

私の鮨初体験はそんな叔父に連れられてのものだったが、初心な少年には、鮨の一通りはおろか、魚の旬も、鮨屋でのトンマナも知る由が無く、
兎に角、大して旨いとも思えない食べ物を流し込み、叔父の話を聞き流し、一刻も早くクラプトンを手に入れたかった。
叔父の住んでいる世界は遠い異世界で、理解が難しいものだった。
(トイレのカレンダーだけは別だ)
今から30年くらい前のことだ。

さて、時は経ち、今私は叔父の年齢とちょうど同じか、ちょっと上くらいになった。
子どもはおろか、親族・家族も皆他界し、ひとりだ。
叔父は脳の病気で15年ほど前に逝去した。
そして、私の楽しみは、たまに金が入ったとき鮨屋に行くことになっている。
もう、クラプトンは聴いていない。

先日、東急田園都市線のこどもの国駅にある鮨屋に行った。
数十年ぶりに乗った田園都市線に揺られ、叔父の住んでいた江田を通り過ぎ、こどもの国駅から歩いて10分くらいの住宅街にある「おとわ」という鮨屋だった。
連れていける甥もいないわけで、一人で行き、黙々とつまみをやり、酒をあおる。

丁寧な仕事、店主の立ち居振る舞いも気持ちがいい。
濃い、強いではなく、意思のある味付けがされている。
米も魚も味の方向性が整えられて、文字通り酸いも甘いも分かっていると感じさせられる。
超高級な素材ではないけど、コントロールが一流だと、食べた刹那の満足度を格段に跳ね上げてくれる。

なんて、知ったような口をきいてみたけど、初めて鮑を食べたのは25歳の時だった。
魚に旬があることを知ったのは28歳の時だった。
でも、今は季節ごとに様々な種類の魚を食べ、山葵の入った鮨を食う。
いつの頃からか、わけの分からない味は、わけの分かる味になっていた。

叔父があの頃、何を思って私を鮨屋に連れていったのか、何の話をしていたのか、最早何も分からない。
でも、叔父のことと鮨の味は、なんとなく昔よりも理解できる気がする。
帰りの電車で、開発はとっくに終わり成熟も半ばを過ぎた江田駅をぼんやりと眺めながらそんなことを思った。

ちなみに、叔父の風貌はライオネル・リッチーとジョン・レノンの中間のような感じだった。もしくは、痩せたブルーザー・ブロディのようでもあり、いずれにしても鮨屋に馴染むルックスではなかった。
そして、なぜそこに至ったのか、最早何も分からないし、未だに理解は出来ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?