大河ドラマ『どうする家康』第21回「長篠を救え!」の感想
いやぁ、今回も面白かったですね、
オープニングの2人の手──鳥居勝商と亀姫でしょう。
手首の縄がミサンガ(葡:miçanga。プロミスバンド)に見えました。
さて、織田信長・徳川家康連合と武田勝頼との決戦の地は、
高天神城
のはずでしたが、織田信長は来ませんでした(遅れました)。
徳川家康は、武田勝頼との決戦の地を
長篠城
と定め、
「今度も来なかったら武田方につく」
と、やって来た使者の水野信元と佐久間重盛に伝えたところ、
月代スタイルの織田信長が大軍を率いてやって来ました。
※『長篠日記』では、使者・小栗大六を岐阜城へ送って伝えたとあります。
織田信長の頭が「月代(さかやき)」だったのには驚かされました。宣教師に剃刀(かみそり)をもらったのでしょうか?
・仏教の僧侶は、丸坊主
・キリスト教の宣教師は、頭頂部の毛を剃るトンスラ
・武士は、兜を被ると熱気が篭るので月代
徳川家康が「今度も来なかったら武田方につく」と言ったのは、「来なかったら徳川軍は負ける。被害を出さないようにするには(家臣を守るためには)武田方につくしかない」という意味でしょう。
あるいは、織田信長に来てもらうための策、嘘(「嘘も方便」)でしょうけど、織田信長の方が何枚も上手で、岡崎までやって来たものの、
「家臣にならなければ、五徳を連れて帰る」
と切り返しました。織田信長に「どうする家康」と言われ、徳川家康は困りますが、亀姫が「(織田信長が決めた通り)奥平信昌に嫁ぐ」と言い、築山殿が「時間をください。まずは長篠を救いましょう」と言ったことで、織田信長の怒りは収まり、「余興じゃ」と言いました。長篠の戦いに、亀姫の結婚問題と、臣従問題を絡めた脚本には脱帽です。
※亀姫の結婚問題:奥平信昌と亀姫との婚約と結婚については天正元年(1573年)8月20日の「七ヶ条の起請文」に書かれています。鳥居強右衛門勝商が磔死した天正3年(1575年)5月16日の段階で、本人も、母親も、兄も知らないというのは変です。「七ヶ条の起請文」は偽文書なのでしょう。
また、「奥平信昌と亀姫との婚約を織田信長が決めた」ということは、徳川家康が織田信長の家臣でなければありえないことです。学者は「織田信長の提案を徳川家康が受け入れた」としていますが、それもどうかな。史実は「徳川家康の提案を織田信長が受け入れた」のだと思います。奥平信昌と亀姫との結婚にしろ、築山事件にしろ、信康事件にしろ、全て「信長のせい」にしたのではないでしょうか。
※臣従問題:国衆が国主(戦国大名)の家臣になることは理解できますが、戦国大名が戦国大名の家臣になるとは理解できません。織田信長が将軍なり、天下人であれば、家臣になりますが。
織田信長は10月に上洛し、11月4日に従三位権大納言に叙任されて公卿に列し、7日には右大将も兼任しました。この頃から織田信長から徳川家康へ出す手紙の形式が対等から薄礼化し、徳川家康も織田一門の武将になったと認識したようです。
長篠城の城主・奥平信昌が「もう武田方に戻れない」というのは、武田から徳川に寝返った時に、「滝山合戦」で多くの武田軍の兵士を殺していますし、その結果、武田に人質に出していた妻と弟が処刑されているからでしょう。
鳥居勝商については多くの方が書いておられるので、あまり知られていない話を載せてみました。
前回の山田重英にしろ、今回の鳥居勝商にしろ、女性の優しさに触れて改心しました。「初志貫徹しろ!」と言いたいが、戦乱の世では、小さな優しさも、大きな優しさに見えるのでしょう。
さて、次回はいよいよ「設楽原の戦い」ですね! 楽しみです!
「鉄砲の三段撃ち」は有りや、無しや。「有り」なら、その発案者は誰?
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