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「徳川家康最愛の側室」於愛(西郷局)

ついに『どうする家康』に「徳川家康最愛の側室」が登場。

演じるのは広瀬姉妹(静岡市清水区出身)のお姉さん。

(僕が脚本家なら、瀬名姫役がお姉さん(広瀬アリスさん)で、於愛の方役が妹さん(広瀬すずさん)で、「徳川家康は、瀬名姫に似ている於愛(西郷局)に一目惚れ」って設定にします。史実(?)では、「徳川家康は、瀬名姫に似ている時姫(西郡局)に一目惚れした」のだそうですが。徳川家康は、正室・瀬名姫を岡崎に置いて単身浜松住み───寂しかったのでしょう。


「西郷の局(さいごうのつぼね)・於愛の方(おあいのかた)」

        原案・石野茂子(『西郷の局物語「お愛さま」』より)

 今から五百年前、掛川の西郷の地に、今川義元に仕えた戸塚忠春(注1)という武士が住んでいました。とても大きな屋敷を構えており、「構江屋敷」(注2)と呼ばれていました。
 戸塚忠春は、構江屋敷に、東三河の西郷正勝の娘・於貞を妻として迎えました。西郷正勝も今川義元に仕えていました。
 構江屋敷内に祀られている「斉(いつき)大菩薩さま」(注3)に守られ、於愛さまは、天文21年(1552年)3月3日の節句の日に生まれました。構江屋敷の跡には、今でも斉大菩薩さまが祀られています。当時の井戸も残っています。於愛様の産湯に使われた井戸かもしれません。
 於愛さまが3歳になった年、父・戸塚忠春は、今川と武田信玄との戦いに参加し、亡くなってしまいました。この戦いには、家康も加わっており、その死を悼んで、家康が木片に戒名を彫った(注4)といわれています。亡骸は構江屋敷に運ばれ、近くの観音寺(注5)に葬られました。
 父・戸塚忠春の戦死から2年、於愛さまの母・於貞は、於愛さまを連れて東三河の実家に戻りました。こうして5歳になった於愛さまは、構江屋敷と別れました。
 於貞の父・西郷正勝は、今川義元に従っていましたが、織田信長との桶狭間の戦いで、今川義元が死んでしまいます。桶狭間の戦いを機に、家康は今川から離れ、西郷正勝も家康に従うことにしました。於愛さまの母・於貞は、家康の家臣である服部正尚(注6)と再婚し、10歳の於愛さまは、母に連れられ服部家の養女になりました。養父となった服部正尚は、於愛さまを大層可愛がりました。服部正尚は、伊賀忍者の頭であり、於愛さまも忍者の学ぶ薬や医術の知識を学びました。
 於愛さまは17歳の時、西郷正勝の甥である西郷義勝(注7)と結婚します。西郷義勝は三河の五本松城の主です。そして、於愛さまは、二人の子供(注8)を授かりました。しかし、家康と武田の戦いの中、夫である西郷義勝は戦死してしまい、結婚生活は3年で終わってしまいました。
 3歳で父を亡くし、20歳で夫を亡くした於愛さまですが、世は戦乱の時代、子供たちを育てながら過ごす日々が続きました。
 一方、於愛さまの母・於貞は、夫である服部正尚に従い、家康が築いた浜松城下に移り、家康公の側室のひとり、西郡の局(注9)の侍女として、浜松城の奥に仕えました。このことが、不幸が続いた於愛さまにとって、大きな転機となります。西郡の局は、於愛さまの母である於貞から於愛さまのことを知り、興味を持ち、会ってみました。西郡の局は、家康の側室ですが、於愛さまの気品ある聡明さと、賢さと、美貌に感心し、家康に於愛さまを側室として迎えることを勧めました。1578年、家康37歳、於愛さま27歳、西郡の局に案内され、お愛は家康の側室となりました。その頃、家康は、三方ヶ原の戦いなど、苦難の時代でした。於愛さまは浜松城の台所を仕切り、周囲に癒しを与え、戦で負傷した家臣の面倒をみたり、困窮者の支援をしました。我慢が続いた家康にとって、於愛さまは、心に明かりを灯す拠り所です。於愛さまも家康に尽くし、献身的に支えました。そして、浜松城に上がって半年後、於愛さまは、後の2代将軍秀忠公(注10)を、翌年には尾張藩主になる忠吉(注11)を生みます。浜松城下にある五社神社(注12)は、於愛さまの安産祈願のために家康が建て、秀忠と忠義の産神さまになりました。
 武田勝頼を滅ぼし、駿河を領有した家康は、45歳の時、長かった苦難の浜松時代を終え、浜松城から駿府城に移りました。東海一の実力者となった家康と共に、於愛さまも駿府入りをしました。苦労が続いた家康に、心の安らぎと勇気を与え、「家康最愛の側室」といわれた於愛さまですが、駿府での日々はそれ程長いものにはなりませんでした。忠吉の出産後、体力が回復せず、駿府入りと共に浜松時代の疲れが出て、1589年、38歳の生涯を終えました。
 後に二代将軍となった秀忠は、西郷の局の菩提寺を移し、駿府の地に壮大な大寺院「宝台院」(注13)を建立。於愛さまの戒名に「宝台院」を加えました。

 時代の流れに翻弄されながらも、懸命に生きた於愛さま。苦労が続いた家康公に心の安らぎと勇気を与え、二代将軍の母となった女性の物語です。

注1「戸塚忠春」:遠江国佐野郡上西郷村(静岡県掛川市上西郷)出身。
注2「構江屋敷」:静岡県掛川市上西郷溝江の溝江公民館。
注3「斉(いつき)大菩薩」:溝江公民館の脇にある。
注4「家康が戒名を彫った位牌」:天龍寺開山堂の「家康鉈彫位牌」
注5「観音寺」:廃寺。墓はある。
注6「服部正尚」:神君伊賀越えで活躍し、蓑笠之助と名乗る。
注7「西郷正勝の甥である西郷義勝」:孫だと思われる。
注8「二人の子供」:一男一女。二男一女説あり。
注9「西郡局(にしごおりのつぼね)」:徳川家康の最初の側室。
注10「後の2代将軍秀忠公」:徳川2代将軍・徳川秀忠。
注11「尾張藩主になる忠吉」:尾張清洲藩主・松平忠吉。
注12「五社神社」:浜松市中区利町。創建については諸説あり。

天正八年七月の比、浜松の城中にいつき祭る五社大明神の社を城外へ移されんとせしに、数萬の蜂むらがり飛て諸人よりつく事ならず。御みづから社頭へまし/\しばし御奉弊ありし後、扇子をもてうち払ひつゝ御下知ありしかば、蜂みな四散す。よて「社の跡を清め、汚穢なからん様にせよ」と命ぜられ、松を植しめ「五社の松」とぞ申ける。

『柏崎物語』


注13「宝台院」:静岡市葵区常磐町。法名は竜泉院殿、後、宝台院殿。

【略系図】

 西郷正勝─西郷元正─西郷義勝 
           ├西郷勝忠(紀伊徳川家家臣)
     戸塚忠春  ├女子(西川城主・西郷家員室)
       ├────於愛
  西郷正勝─於貞  ├徳川秀忠(徳川2代将軍)
       │   ├松平忠吉(尾張清洲藩主)
     服部正尚 徳川家康

 石野茂子『西郷の局物語「お愛さま」』のような小説は、解説書と違い、諸説ある内の1つだけが紹介され、他説は載せられていないので、「ああ、こういう人物なんだ」と納得して読み終えてしまいますが、相互フォローのプロライター・Recoさんによれば、実は謎ばかり!


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