見出し画像

距離①

世界の異常事態を、おそらくわたしはまだ画面越しから見ている。

人間の密度の低い生活をしていると、楽な反面、人間の世界を忘れてしまう。

半分

わたしは『半僧半俗(はんそうはんぞく)』という生き方をしている。読んで字の如く、半分は僧として、半分は俗人として暮らしているという意味だ。
『在家(ざいけ)』という言葉でも呼ばれることがある。

在家の対義語は『出家(しゅっけ)』だ。
出家制度の中で修行をしている方々からは、わたしたちは批判の対象として話題に出されることも少なからずある。
『中途半端だ』『本物ではない』『あんな姿勢では何も得られない』と。

そのような言葉を耳にしたり目にしたりする度に、半僧半俗とは何のためにあるのだろうか、とわたしはよく考える。
毎回それなりの答えに行きつき、納得してまた日々の行(ぎょう:修行の意)と俗世の仕事に精を出すのだけれど、今もまた、その問いについて考えている。

世界のレイヤー構造

この世界には様々なレイヤー(層)があると思っている。次元と呼んでもいいかもしれない。そのあたりは人間の作り出した言葉の誤差であるからあまり重要ではない。

わたしたちは普段、いくつかの限られたレイヤーの中で生活をしているのだと思う。

家族といる時、
仕事をしている時、
趣味をしている時、
恋人といる時、
友達といる時…。
そのそれぞれで、時間の感覚も、息をする早さも、思考の速度もちがうことにある日気がついた。

おやおや…?
これはもはや、『違う世界にいる』ということではないだろうか。いや世界は一緒かもしれないから、この世界の中の異なるレイヤーにいると表現した方が近いだろうか。不思議だな。わたしが存在しない時のそれぞれのレイヤーはどうなっているのだろう。

あぁ、シュレディンガーの猫か。
わたしがいないレイヤーは、存在しているのか存在していないのか、確率は半々なのかもしれない。あるけど、ない。ないけど、ある。不確定なもの。

そんなことを考えて納得したことがある。わたしたちは世界の無限に近いレイヤーの中を渡り歩きながら生きているのだなぁと。

つづく

記事を読んで「サポートしてやってもいいな」と思ってくださいましたら、少しだけサポートしてもらえると嬉しいです。いただいたサポートはお堂の維持、修行、山伏装束の費用に使わせていただきます。