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お子様の日

 いつもより一時間早く起きると、日下くさか陽介ようすけは大きく伸びをする。布団を上げるのは後回しにして、眼鏡を押し上げながら部屋を出た。
(先輩、まだ寝てるよね)
 居間のサイズに合わない臙脂色のソファを邪魔に思いながら、そっとふすまを開ける。畳の上にパイプベッドを直置きしている同居人、かつら月也つきやは、規則正しく布団を上下させていた。
 よし、と陽介は頷く。何かの拍子に目を覚まさないことを願いながら、静かにふすまを閉めた。
 自室に戻り窓を開ける。築三十年を越えるらしいボロアパートの窓は、悲鳴にも似た音を立てた。びくりと肩を震わせて、陽介は動きを止める。隣室に耳を澄ました。
 物音はない。
 寝息も聞こえない。
 起きたから、というよりは、薄いながらも壁があるからだ。聴覚だけでは月也が起きたのかどうか判断できなかった。
「寝ていてくださいよ」
 ため息のように呟いて、陽介はベランダに出る。昨夜の雨の名残で、空気がしっとりとしている。首都圏ではあるけれど、東北の故郷を思い出すような、ほのかに緑を感じるさわやかさがあった。
 五月らしい……思いながら、陽介はまた部屋に戻る。押入れを開け、ごそごそと、昨日買ってきたものを引っ張り出した。
 ソレは、解放されたと言わんばかりにひらりと揺れる。
 青と赤の二匹。
 きれいにパターン化された鱗に、印象的な黒い目で、存在を主張する――こいのぼり。どこか不満そうな表情に見えるのは、プラスチックの矢車に通された値札に、半額の真っ赤なシールが目立っているからかもしれない。
 主役となれる五月五日を過ぎた途端に、処分品とされてしまったこれは、お菓子売り場にあった量産品だ。陽介の実家にあった、三メートルクラスの「空を泳ぐ」ような迫力はなく、片手で振り回せる程度のものではあったけれど。
(先輩、喜んでくれるかな……)
 ベランダに戻り、陽介は濡れた落下防止策にこいのぼりを固定した。風がないせいで垂れ下がるだけのこいのぼりは、二日遅れもあって、どうにも虚しい。
 それでも陽介は、子どもの日を祝いたかった。
 月也のために――
(僕じゃ親の代わりは務まらないけど)
 キッチンに入った陽介は、冷蔵庫からサンドイッチの材料を取り出す。子どもの日っぽいメニューとして、三角形のミニサンドを並べ、皿の上に兜を作るつもりだ。キュウリとニンジンの野菜スティックで、こいのぼりも再現する。
 デザートは、昨日買っておいた柏餅。柏の葉を入手できなかったから、こればかりは和菓子屋を頼るしかなかった。
 ――親がいなきゃ、子どもの日もねぇよな……。
 玉子サンド用のゆで卵を準備して、陽介は眉を寄せた。五月五日、テレビに映し出されたこいのぼりに向けて呟かれた、月也の声は無感情ではあった。
 彼の家に「子どもの日」がなかったことを察するには、充分だった。
 月也に親がいなかったわけではない。父親と、義理の母親は存在していた。ただ、そこに「愛情」があったとは言えなかった。
 子どもの健やかな成長を喜ぶ――そんな感情を抱く家族は、彼にはなかった。
「………」
 野菜スティックを並べながら、陽介はそっと息を吐いた。せっかく、二人だけの子どもの日を盛り上げようと思っているのに、辛気臭くなっていてはいけない。気持ちを切り替えるために、陽介はわざと微笑んだ。
 月也の好きな玉子サンドをメインに、ハムとチーズ、ミックスジャムのサンドイッチを作る。小さめの三角形に揃えて、積み木のように兜の形に並べた。
(子どもの日っぽい)
 さすが、と自画自賛して、陽介はベランダに向かう。緊急事態宣言の最中、暇潰しにセッティングされたアイアンテーブルに運ぶと、すでにタバコのにおいが漂っていた。
「あー、起きちゃったんですかぁ」
「おはよう」
「おはようございます」
「これ」
 加熱式タバコの先端で、月也はピクリともしないこいのぼりを示す。陽介は「はい」と頷いて、サンドイッチの皿を見せつけた。
「僕らの子どもの日でもしようかなって」
「二十歳過ぎてんのに?」
「まだ成長途中ですから」
 まして先輩はお子様です、とからかって陽介はキッチンに戻る。カフェオレの入った白と黒の不揃いのマグカップを持って戻ると、月也は不貞腐れた顔でアイアンチェアに座っていた。
(そういうところが子どもなんだって)
 くすくすと笑いながら、陽介も腰を下ろす。「いただきます」と声を重ねた。
「どうせ陽介のことだから、俺が子どもの日も祝ってもらえなかったって思ったんだろ」
「まあ……」
「確かにそうだけどな」
 長い睫毛を伏せ、月也は玉子サンドを口に運ぶ。黙々と食べ終えてから、マグカップを手にした。表情を隠すように傾ける。
「それで今、こうして色々してもらえるなら、まあ、悪くはねぇかな」
「……はい!」
 たった一言で浮かれる自分も、まだまだお子様かもしれない。陽介は軽やかな音を立てて、ニンジンスティックをかじった。
 ふわり、と風が吹いた。
 こいのぼりの先で、取り忘れた半額シールが揺れた。


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 ゴールデンウィーク企画。五千字を超える短編は、担当さんに格納してもらっているので、書いていない日の方が少ないです(短編集出せたらいいなぁ)