物理学には罪の歴史が含まれているー『オッペンハイマー』

 3月31日。話題作『オッペンハイマー』を観てきました。
 様々な視点から語ることのできる本作、とりわけ「原爆」を扱うということで、劇場の入り口には事前の注意文のようなものがありました。
 様々な視点――ノーラン監督作品として。アカデミー賞受賞作として。そしてもちろん、戦争という視点から……。
 戦争については、私はどのように語ったらいいのか分かりません。映画ファンとも言い難いので、映画評のようなものもできません。しかしながら、これらの視点については多くの方が論点としてくださると思います。
 ですので、私は私なりに、理論物理学――量子論を好み独学している者の視点から、言葉を選んでみようと思います。

 とりあえず、事前知識なしに鑑賞することはお勧めしづらい映画でした。歴史上に実在した人物を扱っているためか、登場人物についての説明がほとんどありません。科学用語についても説明はありません。
 名前を聞いて「ああ、あの人ね」くらいの科学史知識があると、より理解が深まると思いますので、事前知識として一冊ご紹介しておこうと思います。

『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』
著:藤永 茂
出版:ちくま学芸文庫

 著者名から分かる通り、この本は、日本の物理学者(戦争体験者でもある)が、感情を排除し、冷静にオッペンハイマーの生涯を綴った作品です。この本で綴られるオッペンハイマーの言葉が、とても印象深いので、下記にご紹介いたします。

「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーは「物理学者は罪を知った。これは物理学者が失うことのできない知識である」と言った。

『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』藤永茂

 舞台が違うので映画ではふれられることがありませんでしたが、物理学者は何も欧米だけにいるわけではありません。日本にも優秀な物理学者がいました。その中の一人、湯川秀樹は核廃絶を訴えています。そうでありながら、原爆を生み出した物理学に喜びを見出している姿に疑問を呈する人もいました。文芸評論家、唐木順三です。

核兵器は悪いが、物理学は悪くない、ということがあり得るのか。

『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』藤永茂

 物理学を学ぶということは、ただ自然の摂理や宇宙の原理を学ぶということではありません。数学をこなしていくだけのものでも本来はありませんでした。数式には、それが生み出された背景、それによって「何がもたらされるのか」という哲学も含まれているからです。
 しかしながら、物理学が本来持っていたはずの「哲学」は、戦争により失われてしまった……とする見方もあります。
 鑑賞後、次にご紹介する本を手に取ってみると、さらに物理学と戦争の歴史が補強されると思います。

『実在とは何か 量子力学に残された究極の問い』
著:アダム・ベッカー
訳:吉田三知代
出版:筑摩書房

「第4章 マンハッタンのなかのコペンハーゲン」において、戦後、アメリカの物理学に何が起きたのかが語られています。物理学者は、軍のインフラにおいて必要な存在とみなされるようになり、投資対象となったのです。
 結果、物理学教室に多くの学生が詰めかけ、量子力学の哲学的問題はおざなりにされていきます。効率的に計算していくことに焦点が当てられ、不確定性も相補性も、量子物理学の基礎とされるものは、議論されなくなっていくのです。

 不確定性原理はハイゼンベルクが提唱したもので、量子の位置と運動量を同時に知ることはできない、というのが大雑把ではありますが、簡単な説明になるでしょうか。
 相補性はニールス・ボーアが好んだ考え方で、量子の性質である「波であり粒子である」ということに基づくものです。相反する性質は互いに補い合うものである、というような。

 量子の世界はこのように、決定的ではなく「ゆらいで」います。同じく人もまた揺らいでいて、ある側面から見れば「英雄」であり、別の側面から見れば「罪人」であると言えます。
 そういう量子論の考え方をもってすれば、『オッペンハイマー』という映画もまた、「どのように観測したか」によって見えるものが変わってくる映画と言えるのかもしれません。