見出し画像

4月7日

 窓を叩く音に、日下くさか陽介ようすけは目を開けた。
 室内の薄暗さに、日の出前であることを知る。正確には何時なのだろうと、枕もとのスマホをつかんだ。
(あ……)
 四時半という情報よりも、日付に心がざわつく。察したようにコツコツと、窓が音を立てる。陽介は急いで眼鏡をかけ、起き上がった。
 もどかしく思いながら、カーテンと鍵を開ける。
 早朝の空気はひんやりとして、微かに湿っていた。
「先輩!」
「おはよう」
 窓を鳴らしていた同居人、かつら月也つきやは微笑む。口元から、加熱式タバコの煙が漂った。朝靄の中に消えていくそれを見届けてから、陽介は、まっすぐに月也の目を見つめた。
 重く垂れさがる前髪に隠れがちな、薄暗い目を。
 それでも、時にきらめく瞳を――
「先輩」
 おはよう、よりも先に伝えたい言葉があった。今日だけの特別な言葉。年に一度しか伝えられない言葉を、いざ、言おうとすると。
 封じるように、口元に人差し指を立てられる。
 同じ手に握られた加熱式タバコのスティックから、馴染んだ匂いがふわりと香った。
「めでたくはねぇから」
「………」
 苦そうに震える睫毛に、陽介は唇を噛みしめる。「めでたいですよ」とすぐに言い返してやれないくらいには、彼のことを知り過ぎていた。
 ――死にたがり。
 言葉にしてしまえば、ファッションめいた軽さがある。けれど、月也のそれは深刻だ。
 幼い日、義理の母親に刺し殺されそうになったという、トラウマがあるだけでも厄介だというのに。新型感染症によってもたらされた運命的な日常の中で、さらに彼を傷付ける事実も明らかになってしまった。
 四月七日――月也の誕生に関わることで。
 だから、彼はますます、誕生日を受け入れられなくなっている。もしかしたら、家族に愛されなかった日々よりも、ただ一つの事実の方が、月也には重いのかもしれない。
 死が、まとわりついているのだから。
「……先輩」
 陽介はそっと息を吐き、言葉を封じる白い指を立てる手首を、払うようにつかんだ。部屋着のスウェットを通しても、ひんやりと冷たく感じる。死に捕らわれているからといって、体温まで低くなくてもいいのに……思って陽介は、月也の手首を握る指先に力をこめた。
 あたためられるのならば、と願った。
 痛みでもいいから「生」を感じろ、と念じた。
「月也先輩。誕生日おめでとうございます」
「だから」
「いいえ。きっと、僕だから伝えなきゃならないんです。伝えたいんです。あなたの心が慣れるまで」
 受け入れられる、その時まで。
 何度でも言葉にして、いくらでも「心」をあたためよう。
「先輩。生まれてきてくれて、ありがとうございます」
「………」
「僕は嬉しいんです。だから、一緒にホットミルクでも飲みましょう」
 小さく頷いた月也に、陽介は微笑む。一本吸ってから戻る、という彼をベランダに残して、キッチンに向かった。
(ああ、そっか……)
 ふつふつと、ゆっくりと、熱せられていくミルクパンを見ているうちに気が付いた。
(さすがに、今日は寂しかったんだろうな)
 いつもなら、早朝に目が覚めたところで起こすような人ではない。むしろ陽介が起きることのないように、静かにタバコをふかすような人だ。
 それが、今日に限って窓を叩いた。
 四月七日だから――
「先輩。おめでとうございます」
「何回言う気だよ」
「何回もですよ!」
 呆れた様子の月也の左隣に座る。当たり前になった臙脂色のソファで、お馴染みになった白と黒のマグカップを傾ける。
 こんな朝も、何回でも続くようにと願う。
「ああ」
 ホットミルクの吐息が重なる。
 なんでもないのに、おかしく思えて、二人で笑った。


『死にたがりの完全犯罪』シリーズ(TOブックス)
・日下陽介(くさか ようすけ)
 教育学部家庭科教育専攻の大学二年生。6月20日生まれ。
・桂月也(かつら つきや)
 理科大学宇宙物理学専攻の大学三年生。4月7日生まれ。

◆最新第3巻(2023年4月1日発売)

◆原作の空気感そのままのコミック版(シーモア様先行配信)