見出し画像

ある、暑すぎる夏の日のこと

 臙脂色のソファを一人で陣取り、両手足を投げ出してぐったりしている同居人は、まさに「へそ天」姿の猫のようだ。残念ながら猫のような愛らしさはなく、生え際からこめかみを伝って汗が落ちそうになっている。部屋着にされた古いTシャツは白いため、汗ジミが分かりにくいけれど、おそらくソファは相当に湿っているだろう。
「……地球が殺しにかかってきてる」
 扇風機の風に飛ばされそうなひ弱な声で、死に体の猫、桂月也は呟いた。洗い終わったばかりの洗濯物のかごを抱えた日下陽介は、汗に落ちる眼鏡を押し上げて眉を寄せる。
「エアコン使えばいいじゃないですか」
「電気代がぁ――」
 後半はほとんどうめき声だった。陽介は短く息を吐くと、ベランダを目指して自室に入る。畳からも熱を感じる。ほとんど揺れることのないレースカーテンの向こうが真っ白に光っていて、これからの作業にどんよりと陰を落とした。
 午前十時。気温は既に三十度を超えている。この中で洗濯物を干さなければならない。
「……よし」
 陽介は気合いを入れてベランダ用サンダルをつっかける。これすら熱い。空気はまるでスチームオーブンのようだ。まったく月也の言う通り、地球が人類を滅ぼそうとしているとしか思えなかった。
 ベランダでのティータイムを楽しむために置かれた黒いアイアンテーブルセットも、ふれたら火傷させると言わんばかりのオーラを放っている。陽介はなるべく端に洗濯かごを載せ、意味もなく「あー」ともらしながら黒い半袖シャツをつかみ上げた。
 ハンガーに吊るしたところで、ガタガタ、と窓が閉められる。額に前髪を貼り付かせた月也は、鍵をかけると、フラフラと左右に揺れながら窓を離れていく。陽介の部屋を出ると、ぴしゃりとふすまも閉めてしまった。
 ん、と陽介は顔をしかめる。
 暑さで頭のおかしくなった同居人に締め出されたのだろうか? だとすれば過失致死になりかねない日差しだけれど……陽介はゆっくりと瞬くと、墨色のボクサーパンツを洗濯ばさみで挟んだ。たぶん、彼はもう一つの窓から出てくるだろう。
 少しして、洗濯ばさみが揺れるハンガーの向こうに、のっそりと悪魔めいた長身が現れる。彼の私室から出てきた月也は、今にも溶けそうな顔で窓を閉めた。
「結局、エアコン入れたんですね」
 頷いた月也はベランダの細い日陰にすがるようにして、洗濯かごのタオルを引っ張り出した。広げるのも億劫そうにしながらハンガーへと持ち上げる。その指先は白く、夏の日差しはとても似合わなかった。
 別のタオルを広げ、陽介は微かに笑った。
「中で涼んでればいいじゃないですか」
「……冷やし中華、作らせるためだし」
「うわ、それって買い出しに行かないと駄目なメニューじゃないですか」
「まあ、スーパーのちょい先に、夏季限定のかき氷屋オープンしてたし」
 夏用のくるぶし丈ソックスをつまみ上げて、月也は左右にプラプラと揺らす。ちっとも楽しそうには見えない目で、眩しすぎる空を仰いだ。
「こんな殺人的暑さならさ、死ぬ前に遊びきった方が勝ちだろ」
「それは、なんとも月也先輩とは思えないセリフですね」
 陽介もソックスをつまみ、早くも夕立を予感させる入道雲にかざす。夏の象徴たる巨大な雲は、陽介にこれまでの夏を思い出させる。
 いつかの夏、月也は町に火を放った。
 ある夏は、自ら命を絶とうとした――
「でも、そうですね。夏ということであれば、せっかくですから、やりたいことがあるんですけど」
「え、さすがに海とかそういうノリはねぇよ?」
「僕もそういうノリは好みませんよ。きっと先輩なら分かりますから、叶えてください」
 少しの苦みを隠すように笑って、陽介は洗濯物を干し終えた。

     * * *

 買い物の前に立ち寄ったかき氷屋は、幸いにも空いていた。クーラーのよく効いた店内では、夏の日差しに照らされた窓辺の席でも気にならない。まして、目の前には山と形容してもいいだろうサイズのかき氷がある。ガラス越しの陽光は、かえって心地よくさえ感じられた。
(陽介が、夏だからこそやりたいこと……)
 ベランダで出された課題に眉を寄せ、月也は頬杖をつく。店内で生のイチゴから作っているというシロップと、練乳がたっぷりとかかったかき氷にスプーンを向ける陽介を見つめた。そうしたところで彼の希望は分からない。べっこう色の眼鏡の縁に付いた睫毛が気になるくらいだ。
「先輩、食べないんですか?」
 食うよ、と不貞腐れた気持ちで月也もスプーンを動かす。熱気による疲労感に誘われて選んだはちみつレモン氷は、レモンの苦みが感じられて、月也には少し苦手な味だった。思わずしかめた顔に、陽介は目ざとく反応する。
「交換します?」
「……別に」
「強がらなくていいですよ」
 背伸びする子どもを相手にするように笑って、陽介はかき氷の載ったお盆を滑らせるように動かす。月也のお盆を引き寄せると、テーブルの端からレシートが落ちた。拾い上げた月也は、注文順に気付いてますます不貞腐れる。
 一品目が、はちみつレモン氷。
 二品目が、イチゴ練乳氷。
 月也の注文を聞いてから、陽介はイチゴ練乳を選んだということだ。おそらく、この店が果実のフレッシュさを売りにしているということの意味を、ちゃんと理解していたのだろう。生のレモンを使っていれば、そこに苦みがあることを、料理を趣味とする陽介は察していた。
 そして、月也が苦みを得意としていないことも、陽介はよく分かっている。
「なんかムカつく」
 尖らせた口で含んだイチゴ練乳は、練乳の強い甘さと、イチゴのほのかな酸味がちょうどよかった。焼き付けるような日射を浴びていなかったら、きっとこっちを選んでいた。この夏の暑さは、月也の思考も狂わせている。
 だから、分からないのだろうか?
 夏、陽介が叶えてほしいことを――
「……ムカつく」
「楽しんだもの勝ち、って言ったのは先輩ですよ」
「そうは言ってない」
「ニュアンスの問題でしょうが。せっかく、暑さに負けないで思い出を作ろうって出てきたのに、これじゃあ台無しです」
 それは、と言いかけて月也は下唇を噛む。陽介が素直に教えてくれないから……イラついてしまうのは、暑さのせいだ。彼はレモンの苦みにすら気が回るのに、自分はなんにも思い付かないことが腹立たしくて。
 このまま、叶えられずに夏が終わってしまうような焦燥感が苦しくて。
(八つ当たりだ)
 気付けば、罪悪感に襲われる。大きく息を吐き出すと、陽介がスプーンを差し出してきた。うっすらとレモンイエローに染まった氷には、細かく刻まれたレモンの果皮が交ざっている。
「大丈夫ですよ、先輩。夏はまだ始まったばかりですから」
「始まったばかりで殺人的暑さってのはうんざりだけどな」
 身を乗り出し、月也は陽介が伸ばしてきたスプーンを口にする。やっぱり、レモンの苦みは苦手だった。その先で、わずかな「苦み」を隠しきれずに笑う陽介の目も、モヤモヤとさせた。
 ――苦み。
 月也は舌に残るレモンを感じながら、長い睫毛を伏せる。思い返せば、陽介は何も「楽しい」ことをしたいとは言っていなかった。夏だから、せっかくだから、やりたいのだと言った。あの時にも微かに感じられた苦みを踏まえて考えれば、それはあまり愉快なことではなのだ。
 それでも、やるとしたなら「夏」が相応しい。そういう「やりたいこと」だとすれば……ストロベリーレッドの氷をつついて、月也はさらにうつむいた。
「陽介が夏にやりたいことって、お前が『日下陽介』だから?」
「はい」
「そうか……」
 月也はスプーンを置く。陽介の方にイチゴ練乳のかき氷を押しやって、もう一度、はちみつレモン氷を自分の前に配置した。よく混ぜてから口に運んだ。
 少し苦くて、少し甘い。
 爽やかな黄色は、向日葵の花びらの色にも似ている。
「お前にとっての夏は『お盆』だもんな」
「ええ」
 頷く陽介の声も、どこか苦くてどこか甘かった。
 田舎町の農家、代々相談役として頼られている「日下」の長男として生まれ育った彼だからこそ、夏にやることは決まっていて。そういう「大義名分」があることが、月也にとっての優しさになることを、彼は分かっていた。
「母さんの墓参り、一緒に行ってくれる?」
 おずおずと口にした声は、自分でも呆れるくらい甘えている。けれど、自分を産んだ日に死んでしまった母と、戸籍上の母との二人がいて、相応に複雑になってしまった家族が暮らす田舎町には、とても月也一人では帰れない。
 まして、母の墓参りなど――
「冷やし中華、一緒に作ってくれるなら」
「でも俺、包丁とかやばいし……」
「キュウリの千切りがつながっていてもいいですから。僕は、月也先輩と並んで料理がしたいんです」
 せっかくの夏ですから、と陽介はきらりと眼鏡を反射させる。夏でなくともできることを望んだ彼の目には、どこにも陰がない。期待だけに輝く眼差しを無視することはできなくて、月也は「仕方ねぇな」と頷く。
 そうして口にしたはちみつレモンのかき氷は、はちみつの甘さの中にレモンの苦みが効いている。
 たまには――こんなに暑い日が続いているのなら。
 たまにはバグって、ちょっとした苦みを受け入れてみるのも悪くない。
(一緒なら)
 心の中の独り言に満足して、月也は太陽のような色のかき氷に微笑んだ。


※原作(本編)案内のあとに、ちょっとした「あとがき」あります。

 基本的には全4巻で完結しているため、SSとかも本当に気まぐれにしか書けないというか、彼らが教えてくれたら書けるという状況です。
 今回は、あまりに暑すぎるために、暑すぎる夏の日の姿をちらっと見せてくれました。
 暑中お見舞い申し上げます、ということだと思います。