谷あり山ありーおじさんの8年記ー
もし、あのままマンションを出て行かなかったら、アキレス腱を切らなかったら、友人に相談しなかったら、山に行かなかったら・・・今の私はない。
ーーー はじめに ーーー
2016年6月。家族と住んでいただけのマンションから逃げるように出た。
あれから8年。今の自分にたどりついた”キセキ”を辿る。
主な登場人物(運命の出会いともいえる友人)
ヒロさん:北海道在住。18歳年上。仕事の顧客として20年前から親交。
コンさん:東京都に単身赴任。同年代。山の楽しさを教えてくれた。
大ちゃん:長野県在住。10歳年下。写真家であり登山のスペシャリスト。
01 はじまり
子の進学先が決まるのを待って、妻に離婚を申し入れた。承諾してくれたと思ったが、さらなる厄難のはじまりだった。私だけでなく遠く離れて暮らす母や会社にも迷惑がかかった。母は弟が守ってくれた。総務部長に呼び出されたときは、もう辞めるしかないと思っていたが、弁護士を紹介してくれた。
すぐに弁護士事務所に行き、事情を話すと一刻も早くマンションを出ることを提案された。それはわかっている。ただ、収入はすべて妻に任せていたためお金がないのだ。
弁護士事務所を出て、母に電話した。事情もそこそこに100万円を振り込むと言う。父が命を絶ち、その責任を一身に受け、自己破産にまで追い込まれ、ようやく落ち着きを取り戻し、ひっそりと暮らしている母。涙が止まらなかった。
家族と住んでいただけのマンションを逃げるように出た。マンションの前で収集を待つ使い古した私の自転車が降り出した雨に濡れている光景が忘れられない。
02 一人暮らし
避難場所は、西荻窪駅から徒歩10分の1Kのアパート。会社の寮を出た後にしばらく住んでいた場所の近くだ。量販店で小さめの冷蔵庫と洗濯機、そして高架下の花屋さんで観葉植物を2鉢買った。
謎の体調不良
一人暮らしは、自由だった。キッチンを好きなときに使え、家でゆっくり食事ができる。小さいながらも湯船で温もり、安心して眠ることができた。居心地がいい場所は会社ではなく”家”であることを思い出した。休日に居場所があるのがうれしかった。
離婚のことは弁護士さんに任せたが、妻側から提出される陳述書は確認しなければならない。陳述書の中の身に覚えのない極悪人の私に気力を吸い尽くされていく。それでも事実を伝えるには反論するしかない。妻側の弁護士が途中で辞めるなど全く進展がない。この噛み合わないやりとりが永遠に続くのではと思えて辛かった。
落ち着いて暮らしているつもりだったが身体に異変が起きはじめた。仕事の打合せの途中で急に声が出なくなったり、舌がしびれ、味覚がなくなったり、足が異常にむくんだり、靴を履いていられないほど火照ったりした。病院に行くが異常箇所は見つからなかった。
何かを変えないといけないと思い、陽が沈んだ後に近所を走ってみると少し気分が落ち着いた。会社のサッカー部から練習の案内がきていたことを思い出し、久しぶりに参加した。10年間、運動していない42歳は想像以上に酷かった。悔しくてランニングと筋トレをはじめた。いつのまにか体調不良がなくなった。
友人への相談
調停離婚は一向にすすまない。先が見えず、思いあぐんでいるときに札幌出張が入った。帯広に住む友人、ヒロさんを思いだし電話した。
ヒロさんは、入社3年目から担当している会社の担当者で出張のたびにお勧めのお店を教えてくれたり呑みに付き合ってくれた。結婚前に1度だけ妻を紹介していた。
現状を話すと「こっち(帯広)においでよ!ゆっくり話そう。」と言ってくれた。写真を撮るのが好きなことを覚えていてくれて「来るときはカメラを持ってくるように」と。悩みを自然と話せたことが自分自身驚きだった。
10月、札幌での仕事が終わり、高速バスで帯広に向かった。いつもの居酒屋に行くと待っていてくれた。親身に聞いてくれ、ヒロさんの苦労話をはじめて聞いた。何かが解決するわけではないが少し心が軽くなった。翌日の約束をしてホテルに戻った。
翌日は6時に緑が丘公園で待ち合わせ。エゾリスが撮れるいう。「公園で?」と思いながら行くとエゾリスが何匹も駆け回っているのだ。秋色にそまったもみじの絨毯の上で木の実を食べる冬毛の装いのエゾリスを夢中で撮った。写真の楽しさを思い出させてくれた。
アキレス腱断裂
体力にも自信が出てきた12月。フットサルの試合中に踏み込んだ瞬間「バチッ」と大きな音が響いた。痛みは全くないがアキレス腱を切ったことはすぐにわかった。意外に冷静だったのは、母と叔母が両足のアキレス腱を切っているからかもしれない。
同僚の2人が緊急外来に付き添ってくれたのは心強かった。応急処置後、家まで送ってくれるという同僚にモゴモゴしてしまう。会社では誰にも私の境遇は話していないのだ。悩んだあげく別居していることを話すと、驚いた様子だったが、1人であることを心配してくれたのがうれしかった。
現状を話したものの、タクシーで一人で帰ることができた。ただ、アパートの2階に松葉杖で上がるのは大変だった。翌朝、スーパーの買い物宅配サービスで食料はなんとかなったし、生活はできそうだった。クリスマスイブというのに病院に付き添ってくれた同僚の1人が心配してアパートに来てくれた。
月曜日になり紹介してもらった近所の整形外科に松葉杖で向かった。汗だくになって病院に着くと「今は無理する時期ではないから送迎車を予約するように」と教えてくれた。
診断はアキレス腱断裂。手術を覚悟していたが、保存療法で治るとのこと。保存療法用の装具は年明けに届くため、石膏で固定されたまま年を越した。
写真の整理
出かけることができず悶々とした時間を撮りためた手つかずの写真を見返す時間に充てた。これまでパソコンに保存するだけで満足していた数万枚の写真を改めて見てみると悲しいくらいにいい写真がない。失敗作を削除するとハードディスクの空きがずいぶん増えた。
いい写真が少ないことに落胆しながらも貴重な時間だった。30歳のときは写真家になりたくて通信制の大学に入学したことを思い出した。子供が生まれ家族を最優先に仕事をこなす日々でいつしか夢は薄れ、3年生への進級は辞めた。
あれから10年。写真を撮りたくなった。山の景色や草花に会いたくなった。リハビリはあまり順調ではなかったが目標が定まると回復が早まってきた。3月からは普段の生活ができるようになり、軽めのランニングをはじめた。
アキレス腱を切ったことで保険金が振り込まれるとカメラが欲しくなった。もともと好きなソニーのカメラを調べる。ミラーレスカメラに未来を感じ”α7RⅡ”と標準のズームレンズを購入した。
03 転 機
5月はじめに高尾山に登って回復状況を確認し、月末は尾瀬に行くことができた。夏には尾瀬の小屋に泊まり、至仏山に登った。大雪山では、大雪高原山荘を拠点に緑岳や赤岳に登り、沼コースを廻った。銀泉台では星景撮影に挑戦し天の川に感動した。
エゾナキウサギとの出会い
ヒロさんと呑んでいるときにエゾナキウサギの話をすると山に登らなくても簡単に会える場所があるという。生きた化石ともいわれ、登山中に鳴き声はしても姿を見つけたことは2度だけでまともに撮ったことはなかった。
後日、半信半疑で連れて行ってもらった場所でしばらく待っていると静けさの中に響く一筋の鳴き声。本当にいた。しかもこんな近くに。完全にエゾナキウサギの虜になり、翌月と翌々月も会いに行った。
ホソバウルップソウに会いたくて
雨のため早々に山を下り大雪高原山荘でやり過ごしているときに手に取った本に”ホソバウルップソウ”が載っていた。高根ヶ原の一画にしか自生していない固有種で花期は6月下旬から7月上旬。もう花期は過ぎていた。
次に高根ヶ原を調べると空沼あたりから三笠新道を登った先にある。三笠新道の等高線が潰れるくらい詰まっている。前日、雪渓が残る空沼から見上げた崖の斜面なのだ。雪渓には落石がゴロゴロころがっており、どうやって登るのか想像がつかない。
山荘の館主に聞くと、6月下旬から7月上旬の2週間ほどの期間限定で雪渓の急斜面を登ることができるという。ただし、ヒグマが活動をはじめたら閉鎖されるとのことだった。
雪渓を登るには雪山登山の技術が必要だ。大きな目標ができた。
コンさんとの出会い
モンベルのメルマガで八ヶ岳の夏沢鉱泉へのバスツアーに空きがあることを見つける。”雪山初心者向け”の表示に”ホソバウルップソウ”のことが重なりすぐに申し込む。勤続20年の副賞の15万円が手元にあったことも大きい。
雪山登山の道具をホームページで見てもよくわからず、モンベルの店舗に行く。ツアーに参加するための道具を相談し、登山靴と6本爪のアイゼンを購入した。
初日は移動と雪山講習。その後、山小屋では珍しい温泉で温まる。このとき2人しか入れない湯船で一緒になったのがコンさん。東京在住で同年代。山の造詣が深く、すぐに意気投合した。
翌朝、初めての雪山登山は雲ひとつない青空。雪と氷に覆われた森は、時間が止まっているかのような静けさ。陽射しとともに木々が目覚めたように輝き出す。小さな光の粒がゆっくりと舞い降りてくる。自分の中に新しい世界ができた瞬間だった。
大ちゃんとの出会い
モンベルツアーの翌月、コンさんの誘いで赤城山に登った。ここでも雪山の景色に魅了され、ゴールデンウィークもコンさんとともにモンベルの涸沢ツアーに申し込んだ。
ツアーは、この時期にしては珍しく雪だったが、雪山の怖さを垣間見る経験ができたことは良かった。山小屋での時間が長くなり、参加者と話す時間が増える。写真の話で盛り上がったのがツアーガイドの大ちゃんだった。
それもそのはず、大ちゃんはプロの写真家でアラスカの原野をフィールドにしている。北アルプスの山小屋で働いていた経験もあり、山のプロフェッショナルだ。10歳年下の若者の話にあっという間に引き込まれた。
ツアー最終日、ひたすら続く下り道で自然と大ちゃんに自分の境遇を話していた。コンさんに続き、何でも話せる友人ができた。
山泊の魅力
6月下旬、目標にしていた雪渓の三笠新道を上り、ホソバウルップソウの花に会えた。
下山後、満足した気分で登山靴を洗っていると重装備の夫婦が下ってきた。どこに行ってきたか訪ねると「三笠新道経由で高根ヶ原に登り、白雲避難小屋に泊まってから緑岳経由で下ってきた」という。避難小屋に泊まることができることを初めて知った。
1ヶ月後の7月下旬に宿泊の準備をして白雲避難小屋に向かった。避難小屋には管理人がおり、1泊1,000円だった(現時点では1泊2,000円+協力金1,000円)。4リットルの水を持参したが水場があった。ガスコンロ(※)が重要とは知らずに持っていなかったため、ある意味よかったが暖をとる術がなく、シュラフと防寒具では寒くて寝付けなかった。
※エキノコックス症の危険性があり北海道の沢水は沸かさないと飲めない。
この教訓を活かし、次の週も白雲避難小屋に泊まった。4リットルの水をガスコンロに代えた分、軽くなり白雲岳の頂上にも登れた。そして登山者が眠りについた頃、静かに外に出ると今まで見たことがない星空が広がっていた(本記事のタイトル写真)。
翌朝は、朝陽に輝く高根ヶ原やトムラウシ山、朝露を帯びた草花、声を張り上げる鳥たち、駆け回るエゾシマリス、こんな世界があることをもっと早く知りたかった。
避難小屋は、部屋も間仕切りもなく、知らない者同士が譲り合って寝床を並べる。寝床で食事を摂っていると話しかけられることがある。北海道に魅せられて移住した人や珍しい花を探している人、毎週末登っている人など山の話題から人生までいろいろ聞けた。
北海道移住を考えたことはあるが、こうして山に登れるのも生活できるのも今の会社のおかげであり、しばらくは今のスタイルでいいと思った。
04 写真の表現
山に登って写真を撮り、家ではパソコンに取り込んだ後に1枚ずつ見て、気に入った写真をRAW現像する。この繰り返しが次の撮影に活き、撮りたいイメージが膨らむ。ふと、大ちゃんに言われたことを思い出す。
「それだけの写真が撮れるのだからもっと表現しては?」と
投 稿
1年前に1度だけ投稿したことがあるソニーのコミュニティサイトを開く。素晴らしい写真が並んでいて躊躇もあったが、大ちゃんの言葉を実践することにする。選んだ写真にタイトルをつけ、短い紹介文を書いて投稿する。
すぐにbravo(いいね)やコメントがくるが、その後何の応答もない。もう一枚投稿するが状況は同じ。元旦早々6枚、翌日は5枚投稿した。作業自体は楽しいがbravoを意識している自分に違和感を覚え、それからは1日に1枚投稿することにした。
投稿が日常化したある朝、通勤電車でコミュニティサイトを開くとbravoとコメントが急増していた。トップページに私の写真があった。
この年、計4回もトップページに選出された。365日のうちの4日間もトップページに掲載されたことは大きな自信になった。
フォトコンテスト
写真の投稿と同時にWEBで申し込めるフォトコンに応募するようになった。結果発表をドキドキしながら開き、自分の写真がないとがっかりする。そんなある日、大ちゃんのガイドで登ったときに撮影した写真が入選した。
審査員のコメントは少々辛口だったが、3,000円相当の景品はうれしいし、なによりサイトに自分の写真が掲載されたのが心地よかった。
後日、審査員を務めることもある大ちゃんにどんな写真が選ばれるのか聞いてみると「審査員の好み」とのこと。審査員(写真家)の頭には膨大な写真のデータベースがあり、どんなにいい写真でも既視感がある写真の入選は難しいようだ。
いろんな写真を知り、いいと思う作品で感性を磨くことは大事だが、結局は、自分がいいと思った瞬間を撮ればいいのだ。その写真が見た人や審査員に響いたのならこんなにうれしいことはない。
05 惹かれる場所
これまでに一番シャッターを切った場所は大雪山だ。そしてここ数年魅了されているのが冬の十勝。いずれもいろんな生きものに会える場所だ。
大雪山
大雪山に登るのは主に週末。登山道の半分が残雪に覆われた6月でも尾根に出ると雪はなく花畑が迎えてくれる。7月末にかけては登山口から草花が楽しめる。8月は雪どけした場所から輪唱するように春がはじまる。
はじめは高山植物に会いたくて登った。白雲避難小屋に泊まるようになってさらに魅了されていった。頂上付近は広大な景色に加え、天気の移り変わりを目の当たりにでき、悪天候が嘘のような満天の星空に変わることもある。
そして動物会う機会が本当に多い。エゾナキウサギにエゾシマリス、キタキツネにエゾシカ、ノゴマなどの小鳥たちには必ずといっていいほど会える。レアキャラは、エゾユキウサギやヒグマ、エゾオコジョにエゾヤチネズミ。エゾオコジョにはまだ2度しか会ったことがない。
8月末には頂上付近の低木が色づきはじめ、9月下旬には高原温泉が紅葉のピークを迎える。そして10月には雪に閉ざされる。
厳冬期にアプローチできるのは旭岳くらいだ。2019年の3月は7合目で撤退したが、翌年の1月に初めて登頂できた。氷点下19度だったが奇跡的に無風で8合目を越えると晴れていた。
冬の十勝
夏は毎月のように訪れる十勝帯広だが、冬に行くことはなかった。ヒロさんの写真を見るまでは。
ヒロさんに2月がいいと言われ、十勝に向かった。夜明け前の空や朝陽と共に染まる雪原、霧氷が輝く森に魅了された。そして、氷点下20度の朝に念願の”けあらし”に会えた。
朝陽と共に数羽の白鳥の群れが飛び立ち、見渡す限り雪に覆われた巨大な畑には、キタキツネの足跡が縦横無尽に描かれている。その先の防風林の根元には、ふわふわの冬毛に守られた2匹のキツネがこちらの様子を伺っている。強烈な陽射しで白く輝く雪原の舞台で2羽のタンチョウヅルが息ぴったりのダンスを見せてくれる。
公園では、餌探しに奔走するエゾリスやそのそばで眠るエゾフクロウ、木々を巡回するように飛び回るシマエナガなどが活発に活動している。そして日没直後に小さな巣穴からエゾモモンガが次々に出てくる。
06 コロナの効用
新型コロナが猛威を振るいはじめ、今まで通りの活動はできない。余した時間はなにをしようか。山に登っても今までのような小屋泊はできない。
さあどうしよう。。。
写真集作り
活動を自粛せざるを得なくなり、浮いた時間で写真集を作ることにした。
テーマは”エゾナキウサギ”。『写真の整理』の教訓と投稿写真のコメントを活かして、その年のベストショットを1冊のアルバムにまとめていた要領で写真集作りをはじめる。
遙か昔から命を繋ぎ大雪山を守り続けている彼ら。表情豊かで愛らしい姿や神秘的な写真を集めて”大雪のもりびと”として1冊にまとめた。
コロナは落ち着くどころか一向に治まらないため、”大雪のもりびと”の第2段として”エゾシマリス”の写真集も作った。
そして第3段は”高山植物”。はじめは高山植物に会いたくて登った大雪山。出会った花は80種類超。主にマクロレンズで新芽や小指の先ほどの小さな花たちを撮影した写真を”高嶺の息吹”としてまとめた。
写真集ができあがったころに募集されていた『Photoback Award 2020「忘れたくない、とっておきの情景」(コンテンツワークス株式会社) 』に応募したところ”大雪のもりびとーエゾナキウサギー”が特別賞を受賞した。
また一つ大きな勲章ができた。
テント泊
山小屋は避難場所の役割を担う施設であり、来る者は拒まずが原則で、畳1畳に満たない、なんとか横になれる空間が1人の宿泊スペースということが普通だった。これがコロナで大きく変わった。山小屋が以前の3分の1程度の定員にしたのだ。
それともう一つ。コロナとは関係ないがいつもお世話になっていた白雲避難小屋が築50年を越え、この年、建て替えが予定されていた。
この2つの出来事をクリアして山に泊まるには、テントしかなかった。これまでもテント泊を考えたことはあったが、テントをザックに積むよりもそのスペースにレンズを積めたい、設営や撤去の時間を撮影に回したいと思って避けていた。
だが、テントのおかげで山を楽しむ幅が広がった。時間や周囲をあまり気にすることなく撮影ができた。トムラウシ山までの縦走や裏旭でのテント泊などこれまで考えもしなかったことができた。テント泊を好む人の気持ちがわかった。
2021年も山開きとともに大雪山に登り、リニューアルした白雲避難小屋に伺った。支払を済ませ、領収書を見ると”0001”。もしかしたら宿泊客の第1号かもしれない。
朝晩の外気は5度程度なのに断熱が聞いた室内はシュラフが要らないほど暖かい。やっぱり小屋が快適だ。
07 好 天
2021年春に離婚が成立した。協議離婚も調停離婚も審判離婚も合意せず、裁判離婚になったところで突然”和解離婚”に応じてくれた。かなりの譲歩を求められたが弁護士さんのアドバイスに従い、相手の条件を飲み込んだ。”和解離婚”では、役所に離婚届を提出する必要はなかった。
5年間、届け出なかった住民票を役所に持って行った。一人になっていた。その1ヶ月後に下界の避難小屋でもあったアパートを引っ越した。
晴れおとこ
私は元来、雨おとこだった。外に出た途端に雨に降られたり、登山のときも雨が多かった。雨にも負けず写真を撮っていてカメラを壊したこともある。あるときから『雨が降るときは本調子』と開き直っていた。
それが2021年の大雪山は、6回計画し、全7泊したがすべて予定通りに登れた。飛行機は2ヶ月以上前に特割で確保していたにもかかわらずだ。いつの間にか雨おとこを卒業したようだ。
この状態は2023年も続いた。日常生活でも大事なときに雨に降られることが格段に減った。それでも、雨予報の際は折り畳み傘を持つ習慣は続けている。
結 実
いつものようにG-mailを確認していると『ソニーポイント発行のお知らせ』が届いていた。開くと、月例フォトコンテスト大賞特典として30000 ポイント発行とのこと。サイトを確認すると『MONTHLY OPEN PHOTO CONTEST 第15回「静粛」』で最優秀賞。全身の毛が逆立つ。審査員の井上 浩輝先生のコメントもうれしかった。
その1年後、再び『MONTHLY OPEN PHOTO CONTEST 第26回「希望」』で入選した。驚いたことに『第27回「予感」』、『第28回「息吹」』と3ヶ月連続で入選した。さらに『星空フォトコンテスト2023』では αユーザー賞、『αcafeオリジナルカレンダー2024』にも選ばれた。
ちょうどこの年、結婚を機に引っ越した。妻の提案で入選した写真を飾る場所を決めていたが、どの入選写真も暗く「次は明るめの写真でお願い!」と妻からの要望に苦笑い。
最近、妻の影響かもしれないが写真の好みがカッチリしたものからやさしめに変わってきた。
2024年も波は続き『 第37回「しあわせ」』で入選、『第38回「春の気配」』では2度目の最優秀賞を頂いた。
ヒロさんからは「もっと大きな(賞金が高い)フォトコンに出せばいいのにー」と言われるが、7年間続けてきたことが実を結んだことで満たされている。もちろん夢はある。大雪山の写真でフォトエッセイを出版することだ。
ーーー あとがき ーーー
以前「写真を撮ることの意味はなんだろう」と自問したことがある。
いい写真は世の中に沢山ある。それで十分じゃないか。うまく撮れないことのいいわけだったのかもしれない。
ただ、山に登って写真を撮ることが心底楽しいのだ。重い荷物を背負って、たまにクマさんに会っても、また登りたくなる。それに皆が知っている草花や動物、風景でも”その瞬間”は自分だけのもの。それが”かたち”として残り、また楽しめるのが写真なのだ。そう思ってから自問は消えた。
さいごに
離婚のことで思い悩んでいるときにヒロさんと写真そして山に助けられた。現状を受け入れ、心を開いたことで、運命とも思える友人や妻に出会え、自信を取り戻すことができた。50歳になるおじさんが大きく成長できた8年間。生きててよかった。ほんとうにありがとう。次は私が返す番だ。
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