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展覧会に向かう時、人はまだ出会う前の作品をイメージすることでしょう。
その展覧会が、ある会場に作品が展示されている類のものであれば、そこでご来場者はイメージと出会うことになります。

イメージ、、、
想像することにより浮かびあがる何ものか、でもあるし、図像そのもの、でも。
「ある」、「ない」or「あるようなないような」、という差はあれど、「視覚」と深く関わっていることには違いありません。

ある人が、「視覚的なものはジャッド(※)辺りでもう終わってたんだよね」と言っていたような気がします。
もしかしたら、そうかもしれません。
ある種のピークがあの時代にはあったのかも、と。
とは言え、その発言がイメージをないがしろにするような意味を持たなかったことは明白です。
最後まで見ることにはこだわりのある方だったので。

さて。
会期中の今、門谷小学校にあるイメージ。
「分からない」と言われることもしばしばあります。
大和さんの書いていた「閉じた表面と開かれる理解」、山口さんの書いていた「全てが遠い」内のパラボラの話、太陽フレアの話。
「分からない」と言われてしまったその時、そこには「閉じた表面」の壁があるのかもしれません。
また、パラボラや太陽フレアのように、「遠いものを見るとき」、人は「情報をいつもとは違う見方に置き換えてみる」必要もあることでしょう。

どうやったら「開かれる理解」は導かれるのか。
会場にあるイメージを視覚的なものへと帰してしまわないように、イメージからなるべく遠くのものを想像できる、もしくは見られるように。
あれこれ思いを巡らしながら、たまにご来場者に話しかけながら、会場でただただ作品を見続けています。
あっ、あと、人の流れや動きも。

※ドナルド・ジャッド : 1960年代ミニマルアートの先駆的作家。画家、彫刻家、美術評論家。

鈴木

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