台形からみる
地方の山間に暮らすと、あっという間に山が削られ真っ平になる様子を見ることができる、人間の経済活動が進めば進むほど、芋虫に食べたられた栗のように穴が地球を縦横無尽に増えていうのであろう。
実家のある場所もかつては山だった、私が今住んでいる場所も人工的であるが古墳の小山を平らにし、その上にアパートを建てている。(入居して2年くらいは5月になると冷たい手で首を絞められ、、、あの、人違いですよ、、、と脳内で伝えると、あ、、、って感じで離してくれるのでいい人?だったと思います。ある日、私のベランダに括り付けられていたしめ縄が台風でちぎれたあたりからどこかに移動されたようです。)
さて、崩す過程を観察すると、山を構成するのは、おおむね砂と石と岩が組み合わさっていて、地殻変動や、風化、植物による表層のカバーなど途方もない時間の中で「山」の形になっているんだよなー。が瞬く間に台形に整えられていく。地域を支える地盤について博物館の研究者にインタビューする機会があり、彼があっというまに億単位で時間と出来事をはなす様子に、億万年単位の石を身近に理解することとは、について知ることができ、多様性のあり方の一つを学んだ。しかし、億単位の時間の感覚を得るには私の知識でや学びでは程遠かった。
山が消え、整えたれた台形の形は素直にかっこいいなと感じるけれど、これは人間が使いやすいとか、安全だと理解できるから好ましく感じているのだろう。ただ、整えられた法面にのぼりたいという感覚は湧いてこない、踏み入れるとっかかりが見つけることができないことも理解している。
もし、彫刻家が、地球をモチーフではなくメディウムとして造作するならどのように扱うのだろうかと想像した。人が量として捉える限界を物量以外で考え、捉える方法はあるのだろうか。
おおむね人類が、ツルツル、スベスベしたものを気持ちいいと感じてしまうけれど、彫刻家が地球を造作したら量の概念が科学者が知っている量の知識を豊かにできるのではと考えてみた。
もっとも地球全体の総量は、すべてが真っ平らになろうと、それほど変化ないだろうけど。
山口