人の流れ、水の流れ、止めるもの、留めるもの、、、
今回、主に「水」に目を向けた作品を展示しています。
というような書き方を幾度もしてきたので、まるでコピペのようだ。
が、作品の見た目はいろいろながら、思えば15年以上水に関心を持ち続けてきた。
だいたい、「水」というのはほとんど目には見えない。
見えているのは、雨として現れたり、川として流れていく、ごく一部にすぎない。
だから、水に目を向ける時はいつも、想像力であったり、そこにある時間差みたいなものが試される。
2023年、静岡県天竜区の原田橋事故に目を向けた作品を制作し、愛知県新城市の旧門谷小学校で発表することにした。
事故から8年、新橋の完成(復旧)からも3年を経ている。
なぜ今、この場所で、と尋ねられれば、ようやく原田橋に足を運ぶ時間ができた、自身が継続している旧門谷小学校での活動という作品を観せる場所がそこにあったから、と答えるしかない。
恥ずかしながらいつも、理路整然とした世界の中を生きてはいない。
考えることは好きだが、それはいつも遅れてやってくるようだ。
ただ、一つ言えることは、自分の生活圏内の外で起きたあの事故が、どこか他人事で、かつ足を運ぶことのできたそれが、自分の記憶にずっと残り続けていた、ということだ。
さらに言えば、一度か二度だけ通ったあの仮設道路のガタガタとした感触が、頭から離れなかったからかもしれない。
けれども、この時間差は決して悪いことではなかったと感じている。
自分の記憶に残っていたことを再確認したことで、事故の犠牲になった方々に思いを馳せることができたし、おそらく時間とともに薄れていく記憶に、制作行為を通して一つの点を刻むことができたからだ。
土砂災害や崩落事故のことを考える時、そこにはいつも、植物の根の存在が見えてくる。
土砂の流出を防ぐものとして、、
地中に根を張り、アンカーのように地表と内部を接続するその在り方は、私たちの生きる空間の鍵のようでも。
土自体はとてもフワフワしているので、山にある一本一本の樹がなければ、土は簡単に流れていってしまう。
土がなければ植物も育たず、植物が育たなければ、生き物もまた。
どこか、根が保持しているのは土だけでなく、人、私たちの生活そのもののようだ。
点々と生える樹木は流れいく水と深く関わりながら、様々なものを留めている。
水が無ければ生えないし、生えなければ何も集まらない。
そこにもまた、順序とも呼べる時間差が、、、
土地を形づくる水の流れ、そこに生きる人の流れ、道、崩落、災害、植物、根、アンカー。
様々な時間の流れ、物質の移動の中で、結果そうなる。
やはり、彫刻の問題を感じずにはいられない。
さて。
展覧会場に目を向けて。
目を凝らしてじっくりと作品を観ている人。
国道のようにスムーズに通過していく人々。
鑑賞の仕方はそれぞれだ。
スムーズな通過は風のようでとても気持ちが良いが、作品を観ていないようにも見えてしまう。
ただ、時間の感覚も人により異なる。
さっと目を向けただけで、多くのことを感じとる人がいることもまた確かだ。
大切なのは、見た目でも中身でもなく、何が起きたか、なのかもしれない。
なるべく多くのことが人の記憶に残っていたら嬉しい。
今日は展覧会最終日。
16時半をまわれば、そこは通行止になる。
もう作品が同じ時間、空間の中で観られることはない。
倉庫の中で眠るかもしれないし、解体されてしまうかもしれない。
ただ、イメージだけはしっかり残っていってほしいな、と。
窓の閉められた校舎の隙間から、風だけは流れ続けてほしいな、と。
マジで思っています。
鈴木