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まだまだ、まだまだ。

はじめに

「栞日は、3.11から生まれた」と云うと、やや誇張かもしれけれど、あながち虚偽でもありません。すくなくとも、僕の中にはその自覚があって、「責任感」や「使命感」に近い感覚すらあります。

僕と3.11

僕が生まれ育った静岡県静岡市は、母の故郷なのですが、父の出身が岩手県一関市なので、幼い頃、盆暮れ正月の家族旅といえば、父の実家を起点に、東北各県が定番でした。高校卒業と共に静岡を離れ、大学に通うために暮らした街は茨城県つくば市。学生生活を堪能して、コーヒーショップのアルバイトにのめり込み、気づけば人より1年半ほど長く、その街のお世話になっていました。ようやく定めた進路は、宿泊業。拾ってくれた旅館が長野県松本市にあったので、つくばから松本に転居しました。2010年の暮れのことです。

10年前のあの日は、就職から3ヶ月が経ち、仕事のリズムをつかみかけていた頃でした。午前中のチェックアウト業務を終え、賄いを食べに向かった休憩室のテレビに映し出されていた映像は、およそリアルな世界のそれとは思えず、事態を把握して受け入れるまでに、相応の時間を要しました。その年が明けるすこし前まで暮らしていた街のことや、その街で一緒に過ごした友人たち。父の故郷と、その家族たち。いくつもの景色と顔が、僕の脳裏をよぎりました。無事だろうか。

方々の安否が確かめられたあと、安堵と合わせて、僕に残ったのは無力感でした。翌日から、ほぼすべての宿泊予約がキャンセルになり、伴い僕らの業務もほぼなくなり、不意に与えられた休日のなかで、僕はぽつんと立ち尽くし、すぐにでも勤め先に断って、ここからあちらに駆けつけて、何ができるかわからないけれど、とにかく「何か」はすべきではないのか、という焦燥感と、それでもその行動を起こせずに、ただその場に留まっている自分の不甲斐なさに、ただただ苛立ち、そして呆然としました。だめだ、このままじゃ、何もできない。

いま以上に何者でもなかった僕は、当時からとにかく何者かになりたくて、焦っていました。いま思えば、この「何者」とは、「自分を社会に役立てるための、社会との確かな接点を有する者」を想定していて、僕の場合は、その「接点」として、具体的な「場」を街に対して開くこと、を二十歳の頃から(これは、前述のコーヒーショップでのアルバイトでの経験が原点となって)設定していました。いまも周囲から「そんなに生き急がなくても」と冗談まじりに云われることが間間ありますが、「急がねば」というマインドがセッティングされたのは、明確に、あの日、でした。

栞日と3.11

結果的に、その旅館には1年半お世話になって、2012年の春、僕は軽井沢のベーカリーに転職。1年とすこし勤務したのち、2013年の夏、松本に戻り、〈栞日〉を開きます。このとき、僕は僕の「具体的な場」としての〈栞日〉を「本屋」にすることに決めました(屋号だけは二十歳の頃に決めていました)。それは、僕が学生の頃から好きで蒐集癖があったリトルプレスやZINE(数年前から僕はこれらを「独立系出版物」と称しています)に実際に触れて購入できる店が、当時の松本にはほぼなかったから。そして、その機会がこの街には必要だと(勝手ながらに)直感したからです。

あの日から2年が経った当時、もともと好きだった独立系出版物のカルチャーに、僕が改めて関心を寄せ、注目し直した理由は、「ここには真実が書かれている」と確信したからです。企画、制作から、印刷、販路の開拓まで、一貫して当事者本人(著者あるいは編集部)が担う(すくなくとも関わる)これらの出版物は、ひとりの生活者としての実体験や実感に基づき、綴られた(描かれた、写された)表現が故に、嘘がない。クライアントの満足や売上目標の達成が目的ではなく、当人の「伝えたい」「描きたい」「見せたい」という至極私的な衝動が理由で世に産み落とされた表現が故に、その純度や熱量にも、嘘がない。

そして、当時、都心から、例えば四国や九州に移り住み、そこでの暮らしに基づいて、そこでの気づきや学びをしたため、これからの「生き方」や「働き方」を、世に問うように創刊された、インディーマガジンやフリーペーパーが、ぽつりぽつりとその灯をともし始めていました。僕はこれらの紙媒体と出会い、それらの誌面に触れたとき、こうした個人の表現を、もしかしたら必要としている誰かに届けることを仕事にしたい、と思いました。そして、そうした出版物を集め、並べ、誰かとそれらが出会う場を開き、営むことを、僕と社会との「接点」として定めよう、と決めました。

「ちいさな声に眼をこらす」。2016年の夏、最初の店舗から現在の店舗への移転リニューアルを機に掲げた、本屋としての〈栞日〉のテーマです。その声を届けたい誰かが、そして、その声が届いたとき、胸に響くであろう誰かが、この街には、きっと居る。松本に戻ってきたとき、そう直感して、その直感を信じて〈栞日〉を開き、その「声たちを拾い集めて届ける仕事」あるいは「声たちが集う場を開き続けること」が、この街や社会に対して僕が自分を役立てるための「接点」になることを信じて、きょうも〈栞日〉を営んでいます。

おわりに

10年前のあの日、確かに僕らは余りに多くを失いました。けれど、あの日を境に生まれた何かも、確かにあります。それらが希望の種ならば、いや、それらに希望の兆しを見出すことを信じる者ならば、僕らにはその種を育むミッションが、あの日、与えられています。果たして、あの日のそれらの種は、芽を出したのでしょうか。茎を伸ばし、幹を太らせ、枝葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結び、それらの一部を再び土に還す、その巡りの、いま僕らはどのフェーズを、それぞれの種と共にしているのでしょうか。きっと、どれもが、まだ道なかば。「10年ひと昔」と軽んじることは決してできない、あの日はじまった物語の新章は、いまも、粛々と続いています。まだまだ、まだまだ、続いていきます。続けていきます。

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