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自由で感性豊かな子どもだった私が、 生き辛さを経て          自由な表現を楽しむワタシに還るまで。 

命は終わる。それを知ったのは年長の頃。

目の前に横たわる、眠るように美しい彼の姿を
まじまじと見つめた記憶と不思議な感覚。

叔母や祖父母の病気、親戚の叔父たちの事故。
年齢と経験を重ねるごとに、

【命は必ず終わるものなのだ】

と、だんだんハッキリ
理解できるようになった。

私は小さな頃から感覚が繊細で
色んな感覚を楽しむ子どもだった。

また、思いついたら黒電話を回し、お友達の家まで1人歩いて遊びに行く自由さもあった。

そんな私は、小さな頃からアレルギー体質。
体調不良も多く、風邪を引いた時に使う坐薬が大の苦手だった。

40度越えの熱も、子どもの私にとっては普通の事で、空中でぐるぐる回る不思議なものを目で追って楽しむ時間になっていた。

病院の注射も慣れっこで、針が皮膚に入っていく様子を興味深く眺めるので、看護師さんが困ったように笑ってたのを覚えている。

一方母は、私が風邪を引くと夜通し看病してくれて、おでこのタオルがぬるくなる度に、氷水でキンキンに冷やしてくれた。

坐薬も時間ごとに入れてくれてたのだろう。

思い出を振り返ると、自分は我が子に
そこまでしてないなぁと比べて落ち込みそうにもなるけど…。

母の有り難さ、情の深さ。

結婚12年でやっと授かった子どもの私が
病気になった時の母の気持ちを想像すると、

胸の辺りがキュッとなるような、
目頭が熱くなるような思いがする。

話は戻って、坐薬の何が嫌だったかといえば
薬効が切れて急激に熱が上がる時

身体の奥底から湧き上がる
強烈な寒気のなんとも言えない不快感だった。

看護の経験を経た今ならわかる。
身体は薬効が切れた隙を狙って
ここぞとばかりに高く熱を上げることで、

体内に残っているウイルスと必死に戦おうとしていたのだと。

病気がちだった私は、病院という場所や
看護師という職種に対するハードルも低く、

母の勧めもあって、
特に違和感なく看護の道へ進むことになった。

お給料を頂き始めてからの私は、私生活の
自由度が増して、色んな経験を楽しんでいた。

だが現場では、苦しみの中旅立つ人を見送る
ことの多さに、心が追いつかなかった。

それに加えて、病気と戦う人々の背景や
治療方法に対する興味と疑問。

自分の行動一つ一つが、命に直結する緊張感。
上手くできない自分への歯痒さ。

自分の特性が見えるにつれ、看護の現場に
自分がいることの違和感と恐怖もあった。

患者様を看取るごとに、現場にいた自分の
行動を反省して責め続け、罪悪感は巨大化。
私の心はいつの間にか疲弊していた。

職場を移りながら時を経て、結婚後の
不妊治療を機に看護師という職を離れた。

振り返ると、場所を変え結婚して「妻」となり
出産して「母」となることで

自分の中の何かが「勝手に」変わることを
「期待」していたのだと思う。

そんな私に待っていたのは、
自分の奥に眠っていた課題の炙り出しだった。

産後ホルモンバランスの崩れや睡眠不足、
食生活の乱れも加わって、
私の精神状態は崩れていった。

【捉え方の癖】
全て自分のせいと捉える癖があった私は、
我が子に対する周りの指摘や助言、子どもの
トラブル。子どもが泣く原因さえ全てが

「ワタシノセイダ」

と過剰に反応するようになっていた。

【感情のコントロール】
子どもが泣き叫ぶ声を聞くたびに、
心が締め付けられるように苦しく、
泣いてる姿を穏やかに見ていられない自分。

特に運転中は散々だった。チャイルドシートで泣き叫ぶ我が子の声に感情が引っ張られ、
運転する事と迫る予定時刻への焦り。

容量の少ない私の器はすぐに圧迫され…。
感情が振り切って怒鳴り声を返し、

案の定我が子の鳴き声は大きくなる。自分の
行動を責めるだけで何も改善せず悪循環。

「コノコヲキズツケタクナイノニ」
「ココロガナニカオカシイ」

振り返ってみれば、感覚が繊細だった私には
幼少期の記憶と感覚が強く残っていた。

親が何気なく言った言葉に感じた思い。
怒られた時の感情。

両親と過ごした笑顔の時間より、怒られた時の
衝撃の記憶は大きくなっていた。

そして、いつしか子どもの私は怒られるたびに
「ワタシノセイダ」と強く自分を責め

部屋の陰に隠れて首を締めては、顔が熱くなる
感覚を感じていた。

「ワタシハウマレテキテヨカッタノ?」
「ココニイテイイノ?」

怖くて不安でたまらなかった幼い私の感情。
自分の子どもに同じ思いはさせたくない。

なのに、、、母となった私は
「理想の母親像」からかけ離れていた。

子どもが成長し、子ども自身の色が濃くなると共に、器の小さな私の中身はゆとりを無くし、急に感情が振り切る場面が多くなっていった。

子どもに安心感を育んであげたい理想の私。
嫌だと思ってた事をやってる現実の私。
目の前の子どもに重なる、子どもの頃の私。

今の私は一体どこにいるのかわからなかった。

子どもの頃の私が、嫌だと思っていたことを、今の私は我が子にしている。

嫌なのに、どうしていいか方法がわからない。
嫌なのに、感情がコントロールできない。

原因は自分の中にある。だけど、
私から出る言葉は他人を責めている。
そんな矛盾が許せなかった。

「ジブンナンテダイキライ」

当時、大嫌いな人が24時間ずっと一緒に
いるみたいだと本気で思ってました(笑)

【コミュニケーションの問題】
もう私の中が限界だ

「ダレカタスケテ!!!」

…だけど、助けてほしいと伝える
術がわからなかった。

伝えるも何も、自分の中身を
全く捉えきれていなかった。

しかも、感情のコントロールが
ままならない私は、口に出る言葉と怒りの
感情が常にセット。

自分から出てくる言葉はどれも
自分の本質を捉えきれず、上滑り。

もちろん伝わるはずもなく、
目の前の相手とはすれ違うばかり。

上手くできない自分を責め続ける事で、
遂にパニック症状まで出るようになっていた。

「ドウニモデキナイ」「クルシイ」
「ビョウインニハイリタイ」
「キエテシマイタイ」  でも…。

命が消えることへの恐怖と、自分の意思とは
関係なく消えていく命を見てきた経験。

消えてしまった後に残された人たちの景色。
自分の中の記憶と、多方面から捉える特性。

それに…私の場合はきっと、病院に行った
だけでは解決しない。

その点が引っ掛かって動けずにいた。
どうにかしたい。でも、
どうすればいいのかわからない。

「ハッポウフサガリ」

振り返ると、身動きが取れなかった
この時期が1番苦しかったと思う。

そんな中さらに辛かったのは、自ら
命を断ってしまった人の情報を聞く事。

芸能人、学生さんのニュースや、
地元の知人、年下の親戚、、、

私にはただ、その勇気がなかっただけ。
ただ動けなかっただけなのに。…悔しい。

その勇気に込めた力が、ちょっと違う方向に
向かってさえいれば、この人たちにはもっと、色んな可能性が広がっていたんじゃないか。

でも、不安と絶望で生きていく勇気が持てない。その気持ちは痛いほど想像できる。

じゃあ、今の私に何ができる…?

情報が耳に入る度、悔しさと憤りと焦りが入り混じったような、心のざわめきを感じていた。

長男が幼稚園に入園してからは、私に時間の
ゆとりができた。とはいえ、心の余裕が
なかなか取り戻せなかった私は

当時の幼稚園の先生に、言葉にならない思いをたくさん聞いていただき、私は少しずつ
心のゆとりを取り戻していった。

あの時間がなければ今頃どうなっていたか…。
先生方には、心から感謝している。

幼稚園の保護者関係も温かく、助け合うが
詰め過ぎない。お互いを大切にする程よい
距離感は、見てるだけで心地よかった。

人と関わることに疲れていた私だったが
「あぁ…。ここなら大丈夫だ」

と、陽当たりの良い園庭を眺めながら
力が緩んだ日の感覚を、強く覚えている。

ゆるみが出てきたことを皮切りに、動き始めた私が最初に出会ったのは、コーチングだった。

カウンセリングでは向き合いきれなかった
過去の傷を癒す前に

今の私は何を求めているのか。
何を考えているのか。

コーチングの先生に伴走してもらいながら
自分の理解を進めるにつれ、自分の内側に
スペースが生まれるのを感じていた。

そして、2人目の妊娠出産。下の子が生まれた後には、さらなる課題も見えてきた。

長男にだけに厳しくなる自分。生活習慣の乱れと産後の身体の不調も増えていった。

子どもに対する自分の言動を改善したいと
模索する中で出会ったのは、
子育てカウンセラーの福田とも花さん。

著書やYouTube、彼女の言葉で自分の心理と
行動を客観的に捉え始めるようになった。

その後間も無く出会ったのが鴨頭明子さん。
彼女の言葉は力強く、明るく、そして心の奥からまっすぐ流れ出てくる心地よさがあった。

彼女の言葉を聞くたびに、私の周りに
へばりついていた余計なものが
キレイに洗い流されていくようだった。

明子さんの言葉は全て、心の奥からまっすぐ
少しの滞りもなく流れてくる。

流れに滞りを感じやすい私にとって、
彼女の言葉はとても心地よく
急速に、そして強く惹かれていった。

彼女の元で自分自身と向き合うと決め、
逃げずに向き合っていくことで、
私は少しずつ自分自身を取り戻していった。

まずは身体。明子さんの著書を参考に、睡眠、食事、運動で身体を整え始めると、心も身体も面白いように軽くなっていくのを感じていた。

心と身体は繋がっている。身体を整える事で、自然と心は上向きになるのだと体感できた。

次に思考の癖。客観的に自分を振り返り
小さな頃の記憶も大人の私が捉え直すことで

当時親が与えてくれていた、言葉の奥にある
本物の愛情を見つけて受け取ることができた。
そうする事で得られたものは…

【なーんだ。私はそのままでよかったんだ。】

ホッと力が抜けるような大きな安心感だった。

まるで身体中に散らばっていた砂が、ザザアーっと下半分に集まるような感じ。地に足がつく。とはこういうことなのかもしれない。

嫌なところしか見えなくなってた両親のことも、素直に大好きだと言えるようになった。

そのお陰で、2人に直接「私はお父さんとお母さんの子供に生まれて本当によかったよ。今とっても幸せだよ。」と伝えることができた。

小さな頃から大好きだった2人の笑顔。目の前
で、ちょっと目を潤ませながら笑う2人の笑顔は大人の私にとっても最高に嬉しかった。

言葉の奥にあるもの。
相手の本質を捉える力の大切さ。

自分と向き合う事は簡単ではない。
時には見たくない自分も見えてくるから。

自分が好きなもの、嫌いなもの。
得意なこと、苦手なこと。思考の癖。

知れば知るほど、しっかり自分を捉えた瞬間に
フッと自分の力が緩む事を感じていた。

【できなくてもいい】

できないとダメだ。その思考が根強い
私にとって、「できなくてもいい」と
自分を赦す事は未だに簡単とはいえず。

だけど、できないところをどうにかしようと
力を入れれば入れるほど、ゆとりはなくなり、肩が重くなるような感覚があった。

明子さんの周りには、私と同じように
自分と向き合う人たちがたくさん。
そこでわかった事は

私が当たり前にできることが
誰かの当たり前じゃないという事。

逆に、自分の苦手なところは
必ず得意な人がいるという事。

みんな違ってみんないい 私もね。

ただ、お互いが手を取り合っていけば
いいんだという事。

40年近く積み重ねて絡まっていた紐が
解けるにつれて緩み、生きやすく 

そして、私にしか味わえないこの人生、
自分だけの感覚を
楽しめるようになってきました。

とは言っても、容量は小さいまま。
欲を上手くコントロールできない日も多く、
体調の波もある。

まるで、不安定な当初の私に戻ったような
気持ちになる日もあります。

だけど、「何があっても大丈夫」その土台を
大人の私が作り直した事で、しなやかさが
加わり、傷が癒えるスピードは早まってるように感じています。

このような経験を経たことで、過去に
経験したことも全て捉え方次第。

自分にしか味わえない唯一無二の
宝物だったんだと解りました。

そして、堂々と自由に、自分の表現を
愉しめるようになったのです。


私が私を経験して、今の時点で言えることは

【ゆとりが大切だ】 ということ。

ゆとりを作るために少し力を入れれば、
絡まりが解ける道はできるのだと思います。

私はこれまでの経験をもとに
不器用で不恰好な背中の自分のままで

自分や周りにとっての「ゆとり」に繋がる道
を探して動いていきたいと思っています。

これを読んでくださった皆さんが、もし今
苦しいと感じている何かがあるのなら、ただ
「ゆとりが足りない」だけかもしれません。

【人は人を鏡にして 自分を見続けている】

私が辿った道のどこかに、皆さんのゆとりに
繋がるような点が1つでもあれば幸です。

心のゆとり、身体のゆとり、技のゆとり、
時間のゆとり、仕組みのゆとり。
ゆとり作りのアプローチは色々。

でも大事なのは正しい方法を探すより
「1ミリでも動く」ということ。

きっと小さなゆとりができて、絡まっていた
紐の通る道が見えてくると思います。

手っ取り早いのは、、、寝る!朝日を浴びる!

そして、自分のできていない部分も全て
赦すことを意識してみてください。

皆さんの中に、心地いい流れとホッとする
ゆとりが広がりますように。

最後に…

私を母にしてくれた 子どもたちへ
幸せは自分の力で自由に創っていけるよ。
たくさん笑って。幸せでいてね。

子どもの私から 母へ
私は大丈夫だから 笑って 幸せでいてね。
たくさんの愛を ありがとう。

かなりの長文。最後までお読みいただき
ありがとうございました。

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